米のあれこれ 12 東北の米づくり

目の前に広がる東北の水田の風景は半世紀前と変わらないように感じたのですが、それは祖父の岡山の水田や私が当時住んでいた地域の風景と比べてです。

 

東北本線から見えた水田は、どのような変化があったのでしょうか。

 

江戸時代からの新田開発で、1960年代から70年代には穀倉地帯になっていた地域ですから、おそらく水田の風景は当時と似ていることでしょう。

 

ただ、私が小学生だった60年代は、冷害のため、東北で米が不作だったニュースがあったように記憶しています。

国内でも温暖な地域では二期作もしていた時代に、気温が低すぎて安定した収穫を得られない地域があることを、子ども心ながらに大変だと思っていました。

 

その頃から減反政策も本格的に始まっていたので、東北の水田というのはどんどんと無くなっていったのだろうと思い込んでいたのですが、津々浦々に広がる水田地帯に驚きました。

 

ひとつは、冷害に強い稲の品種改良があるのでしょうか。

Wikipediaの「イネ」に書かれている「日本国内の品種」の表を見ると、「あきたこまち 1984年」「水稲農林290(キヌヒカリ) 1988年」「きらら397   1988年」と、1980年代以降、次々と新しい品種が出ていて、育成機関を見ると東北・北海道がほとんどです。

 

当時は、減反政策からブランド米を作って、農家の生き残りをかけるというニュアンスでニュースになっていた記憶があります。

 

5月に八郎潟から日本海側沿岸を回った時も、今回の北上川周辺も、津々浦々、水田地帯が広がっていました。

冷害に強い品種改良もその理由の一つでしょうか。

 

そして東北に限らず水田地帯がしっかりと残っているのは、三世紀、四世紀といった長さで農業用水を確保し、新田を開き、それを維持してきた歴史があることも少し見えてきました。

 

お米の歴史と産地の歴史をあまりに知らなさすぎたと、また人生のやり残した課題が増えました。

 

 

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