水のあれこれ 109 安積疏水

今年になって3度ほど郡山駅を新幹線で通過したのですが、ここが氷の山と勘違いしたところなのかと感慨深く車窓の風景を見ていました。

初めて見る阿武隈川を中心に水田地帯も広がり、市の中心部はゆったりと整備されている印象で、「美しい街だなあ、いつか散歩をしてみよう」と思いましたが、まさかこんなに早くその機会が来るとは思いませんでした。

 

水戸を9時半ごろに出発すると、水郡線で郡山に到着するのは12時半頃です。

最初は、途中下車して水郡線沿線を歩く予定でしたが、Wikipedia郡山の「概要」を読んで、計画を変更しました。

江戸時代には、奥州街道の 郡山宿があったが、本市の発展は明治時代に開削された安積疏水の寄与が大きい。安積疏水は、農業用水として当地の開拓を進め、工業用水・水力発電・飲用水にも用いられて都市化を進めた。

 

*川がそばにあっても農業に適さない土地*

 

安積疏水について、Wikipediaにの「概要」に以下のように書かれています。

年間雨量が1,200mmにも満たない 当地は、疏水が引かれる前は、阿武隈川に向かって傾斜して水利が悪い丘陵地帯であったこともあり、荒涼といた安積原野となっていた。安積原野を流れる五百川、藤田川、笹原川などの河川は流域面積が小さく、安積原野にあるため池群も流入河川がなく、旱魃の影響を受けやすく、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を取る入会地しか用途がなかった。

 

新幹線の車窓から見えたのは、山の方からなだらかに斜面になり水田地帯が広がっている風景で、私が高校生まで過ごした地域によく似ています。

ですから、このあたりも山から豊富な水が水田地帯を作り出したのだろうと思いながら通過したのでした。

 

那須疏水(栃木県)、琵琶湖疏水滋賀県琵琶湖・京都府 )と並ぶ日本三大疏水の1つに数えられている。

 

以前、ブラタモリ那須編で、水無し川と農業用水の話があったように記憶しているのですが、その時に那須も荒涼とした原野だったということを知りました。

ここも一世紀ほど前は「安積原野」であり、疏水によって水を得られるようになったようです。

 

目の前に、阿武隈川が悠々と流れているのに、農業には適さなかった土地だったとは、今の風景からは想像がつかないものです。

一方、明治維新の最中、各地で士族の反乱が起こり、その対策として安積原野開拓が脚光を浴びるようになる。そこで、1879年(明治12年)、国直轄の農業水利事業第1号地区として着工され、日本海への流量を調整して水位を保持する十六橋水門、安積地方へ取水する山潟水門が建設され、隧道・架樋等、述べ85万人の労力と総工費40万7000円(現在に換算して約400億円)によって、130kmに及ぶ水路工事が僅か3年で完成した。灌漑区域面積は約9,000haと広大で、当地を一大穀倉地帯に変えた。 

 

猪苗代湖から水を得ていたとは。

明治時代に、どうやってその計画を思いついたのでしょうか。

 

猪苗代湖の水門から残っている疏水まで見てみたいのですが、今回は準備不足すぎるので、この地域の地形を感じて、そして資料探しをしてみようと郡山市の散歩をすることにしました。

 

 

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