東京駅からひたち1号に乗りました。席は進行方向に向かって右側の席です。ちょうど朝日が入り込み始める時間で、ほとんどの人がブラインドを降ろしている中、ずっと車窓の風景を眺めていました。
まだ散歩をするに記録していなかったのですが、一昨年前から2回、地図と測量の科学館に行った帰りに、霞ヶ浦と手賀沼を訪ねました。
右側の座席からは、その二つの湖が見えるはずです。一瞬ですが手賀沼の湖面が光っているのが見え、そして霞ヶ浦も見えて満足しました。
土浦駅を越えると霞ヶ浦の湖畔がぐっと近づいて、なんとそこにはれんこん畑が広がっていて、まだ蓮の花が咲いていました。
幻想的な風景が列車の後方へと消えるまで、見続けました。
香取湾と呼ばれていた時代から2万年といった歳月を経て、今ある風景がどうやってできたのか圧倒されることばかりです。
*久慈川の風景はイメージと違った*
地図で見ると、上菅谷で水郡線が二手に別れた後、しばらくは那珂川と久慈川に挟まれた丘陵地帯を進むようです。途中、「瓜蓮」駅があり、見渡す限りの湿地に蓮が咲いているかと想像していたのとは違い、まだこの辺りも小高い場所の印象です。
両側の車窓に、見えないけれど大きな川の存在を感じる場所を列車が走り、野上原あたりから水郡線は南へと進路を変えて、ぐんと久慈川に近づきます。
山あいを進むのですが、イメージとは全く違いました。
天竜川や多摩川上流のような渓谷だろうと思っていたところ、川岸がいつもすぐそばに見えます。
堤防がほとんどなく、川と住宅や農地との高低差がほとんどない川でした。
上流の川がこんなにゆったりと、平面を保ちながら流れている風景が日本にあるとは思いませんでした。
久慈川ってどんな川なのだろうと帰宅してから読みましたが、あまり詳細もなく、また水害の記録も書かれていません。
あんなに川辺のすぐそばまで集落があるのは、穏やかな川なのでしょうか。
久慈川の「名称の由来」に、こんなことが書かれています。
久慈という地名は、奈良時代の『常陸国風土記』の記述に「古老のいへらく、郡より南近くに小さき丘あり。かたち、鯨鯢に似たり。
「鯨鯢(ゲイゲイ)」というのは鯨のオスとメスのことのようです。
たしかに、久慈川周辺はなだらかな小高い山が続いていて、鯨の背中のようにも見えました。
日本の中にもさまざまな川の風景があるのだなと、美しい久慈川にひきこまれているうちに、久慈川から離れて磐城棚倉という小高い場所になりました。
地図で見ると、この辺りが久慈川と阿武隈川の分水嶺のようで、ここからは阿武隈川の支流である浅川が車窓に見え始めました。
*河川争奪*
久慈川のWikipediaの「地理」に、「阿武隈川から流路を河川争奪したと考えられている」と書かれています。
「河川争奪」、川のそばを歩き始めたここ2〜3年で目にするようになりました。
大げさでもなく、自分が生きているこの大地の成り立ちを何も知らなかったという思いにさせる言葉でもあります。
そして、なぜこの言葉を知る機会が今までなかったのだろう、と。
河川争奪とは、河川の流域のある一部分を別の河川が奪う(自らの流域に組み入れる)地理的現象のこと。特に珍しい現象ではなく、世界各地にその痕跡地形(河川争奪地形)が見られる。
同じ場所を通っても、私には見えないその「跡」が地理の専門家にはぱっと見えるのでしょうか。
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