いよいよ阿武隈川が見え始めて郡山に到着しました。安積永盛からの運賃の清算のために有人改札を通り、そのままPASMOを使って再入場して今度は東北本線福島行きに乗りました。
車窓の左手はさまざまな凹凸がある地形で、安積原野だった時代を妄想しているうちにいよいよ安積疏水が流れ込む五百川を渡ります。
一瞬で通り過ぎるくらいの規模の河川で、対岸にはアサヒビールの工場がありました。
五百川駅で一旦外へ出て駅周辺を歩いたあと、すぐに反対方向への列車で郡山へ。
お昼ご飯を食べたあと、麓山(はやま)公園へ向かいました。
ここには「1882年に完成した安積疏水を記念して造られた」という麓山の滝があるようです。
実は、郡山駅のバスロータリーにこの麓山の滝を模した小さな滝があり、その水が駅近くの水路を流れていて、最初見たときはこのことを言っているのかと勘違いしそうになりました。
もう一度、説明を読み直して、やはり「1991年、埋もれていた滝が復元された」というのは麓山公園の方だと確認して、歩き始めました。
駅からすぐのところで阿武隈川の河岸段丘だろうと思われる傾斜が見えます。その傾斜を上りながら10分ほどで、広い麓山公園に到着。
滝からの水がほとばしるように落ちている様子をしばらく眺めたあと、向かいにある郡山歴史資料館に立ち寄りました。
資料館に、「猪苗代湖・安積疏水・安積開拓を結ぶストリー 未来を開いた『一本の水路』 ー大久保利通"最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代湖ー」というパンフレットがありました。
明治維新後、武士の救済と、新産業による近代化を進めるため、安積地方の開拓に並々ならぬ想いを抱いていた大久保利通。夢半ばで倒れた彼の想いは、郡山から西の天空にある猪苗代湖より水を引く『安積開拓・安積疏水開さく事業』で実現した。
奥羽山脈を突き抜ける「一本の水路」は、外国技術の導入、そして、この地域と全国から人、モノ、技を結集し、苦難を乗り越え完成した。この事業は、猪苗代湖の水を治め、米や鯉など食文化を一層豊かにし、さらには水力発電による紡績等の新たな産業の発展をもたらした。
未来を拓いた「一本の水路」は、多様性と調和し共生する風土と、開拓者の未来を思う心、その想いが込められた桜とともに、今なおこの地に受け継がれている。(<ストーリーの概要>より)
最近は物語が好きな時代なのかもしれませんが、この「ストーリー」の行間にはさまざまな立場の葛藤や理不尽さが記録しつくせないほどあるのだろうと思います。
このパンフレット自体が、日本遺産のためのもののようですから、感動を前面に出した内容になるのかもしれません。
その中で、以下の箇所はハッとさせられました。
【安積原野へは流れない、あこがれの湖】
郡山(安積地方)から西の天空(標高514m)にあり、豊富な水を湛え、点を映し出す鏡のような美しい湖、猪苗代湖。郡山には「猪苗代湖の水を安積原野へ」という疏水開さくの構想が江戸時代から存在していた。枯渇した原野が広がり、人々は水を巡って争い、雨乞いや豊作の思いを込めた花火を打ち上げ、祈りを捧げていた。
郡山歴史資料館を後にして、近くにある荒池公園を回ってから駅に戻りました。
郡山市内は歩道も良く整備されていて歩きやすく、美しく落ち着いた街でしたが、一世紀ほど前はまだ原野だった。
一世紀という歴史の意味への思いがますます強まるこの頃です。
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