鉄道とバスの乗り継ぎも無事にうまくいって、九頭竜川のあちこちを見ることができたので、夕方の特急に乗るまであと3時間ほど時間があります。
地図で気になっていた福井市水道記念館へ行ってみることにしました。
福井駅から福武線に乗って、2つ目の足羽山公園入り口で降りました。
この福武線は福井駅から市の中心部は都電荒川線と同じ路面電車で、途中から普通の鉄道になるという不思議なシステムで、西山公園の脇を通って越前武生まで走っています。
それぞれ別の路線だと思ったので、最初は乗り間違えたのかとドキドキしました。
少し小高い足羽(あすわ)山があり、そばを足羽川が流れています。
足羽川から取水して水道にしているのだろうと想像したのですが、全く違うものでした。
*水道水はどこからくるのか*
足羽山公園入り口駅から歩いて数分のところに、福井市水道記念館があります。
大正末期に建てられた水道施設が保存されています。
パンフレットには以下のように書かれています。
この施設は、福井市が水道事業を開始した大正13年、一本松浄水場から足羽山配水池へ水道水を揚げるための施設「足羽揚水ポンプ場」として建設されました。
以来、70年間使用されてきましたが、浄水場から直接水を配水池に送ることが可能になり、平成3年3月にその役目を終えました。
足羽山は40mほどの高さがあり、その頂上に配水池を作りこの揚水ポンプで一旦その配水池に水を溜めて、落差を利用して福井市内へと水を供給していたようです。
あの駒沢給水塔や旧中島浄水場と同じように、電気を使って高いところに水を溜めて落差を利用して配水するものですが、所変われば方法もいろいろなのですね。
施設の歴史
大正時代までの福井市では、浄水されていない水を飲んで伝染病がはやったり、井戸が少なくて火事がおこってもすぐに消せなかったため、水道は市民の豊かな暮らしのためには、とても必要なことだったのね。
そこで第4代目の福井市長山品捨録(やましなすてろく)さんの時代に、水道を作る準備を進めて、大正13年に給水が始まったのよ。
この水道記念館は旧足羽揚水ポンプ場として、一本木浄水場から送られてきた水を、足羽山にある足羽山配水池に水を送る役目をしていたわ。
福井市民約10万人が使えるように、水道を整備するのに使われたお金は、その頃の、福井市の年間予算の4倍にものぼったの。
(展示より)
記念館を出ると、すぐそばに足羽山への「百坂」という階段があります。
見上げるような急な坂で、その日も猛暑日に近い気温の中、見ているだけでめまいがしそうでしたから、残念ながら池があった場所をみるのは断念しました。
*芝原上水*
福井市の大正時代からの水道事業もすごいのですが、圧巻だったのは「江戸時代の福井の地図」に描かれていた芝原上水でした。
福井市内の地図を眺めていたときに、福井城の堀の水は近くの足羽川から取水しているのだろうと思いましたが、福井場の北側には九頭竜川からの芝原上水が1601年には造られていたことを、帰宅してから芝原上水を検索して知りました。
記念館の江戸時代の展示では、福井城の北側に何本も水路が描かれていて、あの江戸の給水法と同じ、江戸時代に使われた木や竹で作られた送水管が展示されていました。
玉川上水が羽村から四谷まで築かれたのが1653年ですから、その半世紀も前にすでに福井では九頭竜川からの上水建設が行われていたということになります。
ああ、知っていれば二泊三日にして、この芝原上水を訪ねてみたかった!
また散歩の計画ノートに、予定が増えたのでした。
流域面積が「福井県の面積の約70%にあたる」という九頭竜川を一泊二日で理解しようということ自体が無謀でしたが、それでもけっこう要所要所は見ることができたと大満足のただひたすら北陸の川と海を眺める散歩になりました。
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