散歩をする 168 狩野川台風の跡を歩く

今年の1月に狩野川放水路三島の湧水を散歩して以来の、久しぶりの三島駅です。

ここから駿豆鉄道に乗り、大仁へ向かいました。

 

狩野川の支流の大場川やその用水路と水田そして山をながめ、列車は進みます。

この地域の風景が、子どもの頃に見たときもなんだか懐かしい想いになり好きなのですが、その理由が狩野川の「歴史」を読んで、ああと思いました。

氷河期が終わり、海面が現在よりも数m高くなった約6,000年前の縄文時代には、縄文海進という海水面が高かった時代があり、その頃には伊豆の国市伊豆長岡町付近までは入江で、古狩野湾を形成していた。やがて海面が低下し始めると、狩野川が土砂を堆積させ現在の田方平野を形成させていった。 

あの印旛沼周辺を見たときと同じく、倉敷に似ているからかもしれません。

 

さて、伊豆長岡駅を過ぎ、あの狩野川放水路のある大きく蛇行した箇所をすぎると、前方に切り立った岩山が見えます。

おそらくあの辺りが、また狩野川が大きく蛇行する 大仁だろうと思った通りでした。

その城山のそばに大仁駅があり、このあたりからS字を描きながら上流に修善寺駅があります。

 

地図で見ると左岸に狩野川記念公園があり、「狩野川記念公園」のHPには「昭和33年の狩野川台風復興記念」として建設されたとあり、「狩野川の歴史」に狩野川台風の様子や写真が掲載されています。

その近くに、自得院がありました。

まずはこの辺りを歩いてみようと、大仁駅で降りたのでした。

 

狩野川台風記念公園*

 

トラックが行き交う狩野川大橋を、車の風圧に煽られながらおそるおそる渡りました。

足元には狩野川の清流が流れています。

 

狩野川記念公園は、子どもを連れた家族が何組も遊んでいました。

その公園の端の方に、狩野川台風の状況が書かれた大きな石碑がありました。

午後9時50分頃橋壁を突破した濁流は一大怒涛と化してまっしぐらに 下流熊坂を直撃する。かかる上流の事態を夢想だにしなかった熊坂の夜は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場となり不気味な地鳴り荒れ狂う波の底に沈んだ。

 

「橋壁」は狩野川大橋ではなく、もう少し上流の大仁大橋と思われます。

いずれにしても、狩野川台風では修善寺町の337名についでこの大仁で202名もの方々が亡くなられたようです。

ちょうどあのS字状に蛇行した二つの地域が、狩野川台風でもっとも被害が大きかった場所でした。

 

「熊坂」というのはこの狩野川公園がある地域で、そこに自得院があります。

 少しずつ河岸段丘を登ると、自得院が見えてきました。

お寺の中にももしかしたら狩野川台風の記録があるかもしれないと近づいたのですが、「参道にスズメバチが出現したので注意」と書かれていたので引き返しました。

 

*大仁橋*

しばらく狩野川沿いの街を上流に向かって歩くと、大仁橋があります。こちらの方が歩道もゆったりしていて交通量も少ないので、のんびり歩けました。

 

川の中に煉瓦造りの橋脚のようなものが残っているのが見えます。右岸にある橋の側の小さな公園には大仁橋の歴史が詳しく説明されていました。

大仁橋は県内の鋼製トラス橋の先駆け 

大正4年、鋼製トラス橋が当地に架設されたことは、大変画期的なことでした。大仁橋は、県内の国道1号にある大正12年の安倍川橋や大正13年富士川橋に先駆け、約10年も早く架けられました。当時の橋梁技術者の活躍ぶりがうかがわれます。

 

大仁橋の設計者は?

大仁橋は、大正2年、3年に開通した鉄道のトラス橋である。JR東海道本線天竜川橋梁や大井川橋梁と、形式(上弦が湾曲している曲弦プラットトラス)並びに橋門構(このモニュメントの橋の入り口の形)が似ています。

これら鉄道橋は、明治15年から20年に英国人の技師チャールズ・パウエルが設計した橋を基に、日本で設計(鉄道院)、制作(東京石川造船所他)した初期のトラス橋と言われています。

 日本に頑丈な橋が建設された歴史を垣間見る説明に引きこまれました。

 

現在は5代目の橋だそうで、狩野川台風の際に壊れたのは3代目のようです。

初代、二代目までは木製トラス橋だったものが3代目以降は鋼製の橋になり、狩野川台風では左岸堤防が破壊され、橋だけが残っている写真がその説明書きにありました。

現在も川の中にある橋脚部分は、橋が台風で流されて残ったわけではなく、4代目につけ替える際にとり残されたようです。

 

 

父はどのあたりに派遣されたのだろう。当時、何を見たのだろう。

戦場とはまた違う地獄絵図に、何を考えたのだろう。

語る人を失い、あちこちに残された記録から想像するしかない散歩です。

 

 

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