数字のあれこれ 57 帰還困難区域

Wikipedia国道6号線の原発事故による通行規制には「2011年4月22日から2014年9月14日まで」が通行不能だったと書かれています。

2011年3月12日の原発事故発生直後からおそらく規制されていたのだと思いますが、なぜ1か月以上の時間差があるのでしょうか。

当時のことを思い返すと、さまざまな情報、特に放射線の数値に関する情報が飛び交っていたためだったのでしょうか。

あるいは正確な各地域の放射線測定結果を待って判断する必要があったからだったのでしょうか。当時は毎日真剣にニュースを追っていたはずなのに、今となるとそういう時系列での記憶があまりありません。

 

私自身は、ネット上での信頼できそうな情報を早くキャッチできたことと、原発事故後に出された周産期関係の見解で、数字が苦手ながらもだいたいの状況を把握することができました。

 

ただ私自身が避難していないため、「帰還困難区域」といった表現はニュースで耳にしていても、どのような状況を示しているのかあいまいなままだったと、今回その地域を通過して思いました。

いえ、決して他人事だったという意味でもなく、余震や計画停電の可能性、そしてあまりに大きな震災被害を受け止めることに心身共に追われていた時期でした。

 

そこで、自分のメモのためにコトバンクに掲載されている「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を書きとどめておきます。

 

2011年(平成23)3月11日の東北地方太平洋沖地震により発生した東京電力福島第一原子力発電所事故に伴い、政府が住民に対し、放射線量がきわめて高いため、長期に渡って立ち入りを制限している地域。住民の生命・身体の危険を防ぐため、政府が立ち入りを減速制限・禁止する避難指示区域の一つである。指定直前の2012年3月時点で、1年間の積算放射線量が50ミリシーベルトを超えており、事故後6年経っても年間積算放射線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある地域である。国際原子力機関IAEA)などの国際機関の基準を考慮し、20ミリシーベルト以上の地域に居住し続けると、人体に影響を及ぼすおそれがあると判断した。

帰還困難地域は原則立ち入り禁止で、区域境界にはバリケードなど物理的防護施設を設け、警察が検問し、住民に避難の徹底を求める。例外的に、住民の一時立ち入り、主要道路の通過交通、防災など公益を目的とした立ち入りなどを認めるが、市町村長が発行した通行証が必要で、防護服着用や線量計所持を徹底し、ここの被曝(ひばく)線量を測定して健康に害が及ばないようにする必要がある。区域内での宿泊はいっさい認めない。帰還困難区域の住民には、精神的損害に対する賠償として、一人一律1450万円が東京電力から支払われた。区域内の不動産家屋住宅は「全損」扱いとし、福島第一原発事故前の価格で全額を東京電力が賠償する。除染やインフラ復旧については、放射線量が高く、ほとんど手付かずの状況にある。2017年4月時点で、福島県の富岡(とみおか)町、大熊(おおくま)町、双葉(ふたば)町、浪江(なみえ)町、葛尾(かつらお)村、飯館(いいだて)村、南相馬(みなみそうま)市のそれぞれ一部が該当。総面積は名古屋市とほぼ同じ337平方キロメートル、避難対象住民は約2万4000人に登る。政府は2016年、避難指示区域を2017年3月までに解除する方針を示したが、放射線量の高い帰還困難区域はこの対象から除かれた。政府は2016年12月、帰還困難区域内に住民が居住できる「特定復興拠点」を設けて国債で除染とインフラ整備を進め、5年後をめどに避難指示を解除する方針を示した。

 

朝日新聞の「キーワード」によれば、避難指示区域には「放射線量の高い順に『帰還困難区域』『居住制限区域』『避難指示解除準備区域』」があるようです。

 

 

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