記録のあれこれ 50 八沢地区干拓地

福島県浜通りの地図を見て、印象深いのが溜池が多いということでした。

実際に、常磐線の車窓からも沿線に森の中にあるため池がたくさん見えました。

最近、水田地帯を見て歩く機会が増えたので、溜池があるということは水田を作るには大変な場所だったのだろうというくらいは想像できるようになりました。

 

松川浦の南側にも宇多川右岸にそって干拓地らしき場所があります。

最初に、ここを訪ねたいと思いました。

散歩の計画段階では、行きたい場所がたくさんありますから、所要時間も気にせずどんどんと計画が広がります。

ところが当然といえば当然ですが、干拓地周辺というのは公共交通手段がとても限られていますから、この計画もあきらめたのでした。

 

ただ、松川浦周辺の干拓地について検索している中で知ったのが、八沢地区干拓地でした。

 

*「祈りの道しるべ ガイドマップ」より*

 

曹洞宗東北区強化センターのHPに、「八沢地区慰霊碑」の説明がありました。

 相馬市と南相馬市にまたがる八沢浦の干拓は、明治40年から昭和初期にかけて行われた。その干拓地がすべて海になっている。八沢干拓排水機場のそばにあった山田神社も流出し、現在神社と慰霊碑が立っている高台は避難場所に指定されていたが、津波はここをも飲み込んだ。八沢区は現在、家の土台も撤去され、かさ上げと堤防工事が進められている。

 高台まで波のとどろきが聞こえてくる。八沢地区では65名の方々が命を落とした。帰る家も無くなってしまった御霊を慰めたいという思いから、せめてここを目印に帰れるようにと八沢地区の北海老集落の方が聖観世音菩薩像を建立した。

 山田神社は、熊本県の球磨工業高校伝統建築専攻科の生徒たちが寄贈した鳥居と仮社殿を昭和16年に元々山田神社が建立されていた高台に置いた。集落はなくなったが、約200軒の氏子の方々とここで三年祭を行うことが出来た。その後日本財団の支援で本格的な社殿を再建し、平成28年9月に完工遷座祭が行われた。寄贈された仮社殿も、新しい本殿に収められている。東北と熊本の絆がここにある。

 

その半年前には、この干拓地があった港行政区は閉区されていたようです。

 

 

常磐線鹿島駅を過ぎてから車窓をずっと見つめていました。土地勘が全くないのですが、少し森が途切れた向こうに見えた風景に、あの八沢干拓地だと確信しました。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

あわせて「米のあれこれ」もどうぞ。