なんだか不穏なタイトルですが、父の面会に通っていた日々を思い出したら、またいろいろと回想が始まりました。
感情の浮き沈みが激しい母に比べて、父は本当に穏やかで認知症になっても感謝と気遣いの人でした。
私が子どもの頃、朝から母がどんなに不機嫌でもいつも穏やかに出かけて行き、そして、おそらく仕事で辛いことがあっても微塵も感じさせないほど穏やかに帰宅する父でした。
テレビドラマで家族が喧嘩をしたり一方的に怒鳴ったりして、その後一人が出かけて行くシーンがありますが、私はあの場面がとても苦手です。
その後、どちらかが事故にあってもう謝ることもできなくなったらと考えると、自分だったら後悔してもしきれない想いを抱え続けることに耐えられなさそうです。
20代初めの頃に出会った犬養道子氏の本にも、「視線ひとつで人を絶望的にさせ殺して(自殺させて)しまうこともできる」というようなことが書かれていました。
ああ、本当にそうだ、気をつけなければと心に刻まれました。
ところが、人の心というのは本当に厄介です。
その言葉に出会った頃から、むしろ父の思想に嫌悪感を感じ距離を持っていったのでした。
父を見る私の眼差し、あるいはそっけない返事の仕方はどれだけ父の心に悲しみや絶望をもたらしたのだろう。
耐えて生きてくれた父でした。
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