記録のあれこれ 55 亘理町立郷土資料館

10月に常磐線の車窓から見えた、駅に隣接するお城のような郷土資料館を訪ねることがこんなに早く実現するとは思っていませんでした。

はらこ飯が背中を押してくれたおかげです。

 

鳥の海と阿武隈川河口を見て駅に戻って来ました。いよいよ、郷土資料館です。

どんな歴史と出会うのだろうと楽しみにしていたのですが、なんと年内は工事中で閉館していました。なんだかフラれてばかりの今回の散歩です。

 

ホールに東日本大震災の写真が展示されていました。

私が今見てきたあの荒浜地区の津波の被害の写真です。「東日本大震災における亘理町の被害」という説明があり、写真をとる許可をもらいました。

  平成23年3月11日午後2時46分に発生した三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震とその後に襲ってきた大津波によって、東北地方と関東地方の太平洋側沿岸地域が甚大な被害を受けました。

 亘理町では死者・行方不明者が306人、家屋の全壊・半壊が3,773棟(平成25年1月31日現在)に達しました。特に海に近い荒浜地区と吉田東部地区の被害は大きく、多くの人命が失われ、多くの家屋が消失しました。

 亘理町は海抜の低い平野部が広がっていて、津波による影響は大きく、まちの総面積の47%が浸水しました。基幹産業である農業においては塩害と排水施設の機能不全によって深刻な状況に陥り、平成23年度の水稲作付けは水田面積の25%にとどまりました。また、特産品であるイチゴは作付けをしている地域の9割以上が被害を受け、壊滅的な状況となりました。

 亘理町は荒浜漁港の損壊が激しく、多くの船舶が流されたり打ち上げられたりし、漁具も流出してしまい、甚大な被害を受けました。

 鉄道ではJR常磐線亘理駅以南の被害が大きく、再開の見込みすら立たない状況になりました。(平成25年3月に浜吉田駅まで再開)。

 

亘理産のお米を使ったはらこ飯が食べられるというのは、こういう状況があったという意味なのですね。

 

 

「過去の大津波」の説明もありました。

 東北地方太平洋沿岸はたびたび津波に襲われ、大きな被害を受けてきました。津波被害の多くはリアス式海岸の地域で発生していて、平野部に被害が及ぶことは少ないと言われています。しかし、過去には平野部でも甚大な被害を及ぼした大津波があったのです。

 貞観(じょうがん)11年 (869)に発生した津波は、平野部を襲い大きな被害をもたらした記録があり、発掘調査で国府であった多賀城の町が壊滅したことが分かっています。 

 慶長16年(1611)に発生した津波は、仙台領内で1,783人の溺死者があり、岩沼市にある千貫山の麓まで船が運ばれたという記録が残っています。

 二つの津波において、亘理ではどのような被害があったのか記録は発見されていません。しかし、近年行われた地質調査の結果、現在の国道6号近くまで津波が押し寄せたことが分かっており、相当な被害があったことが推測されます。今後、亘理の歴史を紐解くにあたって、津波の記録や伝承、復興や町作りがどのように行われたのかなどを調べる必要があると考えられます。

 

説明文と津波の写真が、亘理に住む方々が日常的に出入りするであろう場所に展示されています。

初め見た時には、まだ傷も癒えないようなこの時期に「知っている場所の被害の写真」が展示されることに議論があったのではないか、と想像しました。

 

もしかすると、「過去の大津波」にある「亘理ではどのような被害があったのか記録は発見されていない」という点が、災害の歴史での失敗学だったのかもしれません。災害時に記録を残すというのは、感情を抑え、直視していかなければ正確に残すことができない。

そんなことをこの展示から感じ取りました。

 

残念ながら閉館中でしたが、この展示を見ることができただけでもきた甲斐がありました。

 

 

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