米のあれこれ 15 中海・宍道湖の干拓

ただひすら川と海を見にあちこち訪ねている理由のひとつに、全国の干拓地を見てみたいという壮大な夢があります。

専門的なことはとても理解できないのですが、せめて、いつ頃できた干拓地なのか自分の頭のなかに年表を作りたいという感じです。

 

宍道湖にも干拓地があることはなんとなく知っていました。宍道湖といえばシジミですが、それと関連して記憶にあったのだろうと思います。

地図を見ると宍道駅のそばに、「宍道町昭和新田」とか「斐川町中洲」「斐川町沖洲」という地名とともにまっすぐに用水路が整備された場所があり、この辺りも干拓地だろうと想像ができました。

 

また、中海には中海干拓地揖屋駅の近くの東出雲町錦浜、あるいは穂出志摩町彦名新田あたりが干拓地だと想像できる場所です。

 

ちょうど今回出かける直前に、偶然、宍道湖水質汚染のニュースがありました。検索してもそのニュースを今見つけられないのですが、干拓地の影響のように書かれたものでした。

宍道湖干拓の歴史を探してみましたがまとまったものを見つけられず、中海の干拓に関してはWikipedia干拓・淡水化事業として以下のように書かれていました。

中海の大規模干拓および淡水化は、「昭和の国引き」と言われ、1954年6月に島根県が計画を発表し1963年4月に事業が開始された『国営中海土地改良事業』に端を発する。計画は干拓によって、農地等約2230haを造成し、その干拓地と沿岸周辺農地約7300ha分の農業用水確保を目的に中海を淡水化するというものだった。

その後1968年から本格的に工事が始まるものの、1971年から減反政策が本格的に着手され1984年に水田造成から畑地造成へと計画の変更を余儀なくされる。

一方、1980年には本庄工区(特に干拓の是非をめぐって争点となる)の堤防(森山堤防)が完成するものの、水質汚染や環境破壊を懸念した反対運動が起こり、淡水化の影響を受ける宍道湖の漁業者も淡水化反対へと回った。その結果、1988年5月に、島根県鳥取県農林水産省に淡水化施工の延期を申し入れ、9月に延期に伴う中海干拓協定に調印。本庄工区の干拓は先送りされた。

その後も1989年には揖屋工区、安来工区、弓浜工区が、1993年には彦名工区の干拓が完成するものの干拓計画の大部分(1689ha)を占める本庄工区は先送りされ続けた。

最終的に2000年に入り、全国的な「公共事業見直し」の機運の中で4月に農林水産省中国四国農政局が「社会状況が変化」と全面干拓見直し方針を示し、7月に島根県が財政圧迫などを理由に事業を凍結、8月には農林水産省が本庄工区の干拓中止を決定した。

その後、農林水産省は2002年に永らく凍結状態であった淡水化事業の中止を決定。2005年には事業計画の変更や廃止の手続きが完了し、干拓地の農業用水確保対策や施設処分などに着手した。中浦水門(1974年整備)などの撤去が開始され、2009年3月に中浦水門の撤去は完了した。

現在はジャンボニンニクやネギの生産が行われている。

 

Wikipediaのこの説明は主に島根県側のしかもほとんど中海の話で、私がタクシーでまわった中海干拓地鳥取県になるのですが、そこも含めての「国営中海土地改良事業」だったのでしょうか。

私がみた場所は、何年頃にどのような背景で造られたのでしょう。どんどんとわからないことが増えていきます。

 

地図を見ると、中海の島根県側に大根島があって、その島と松江市側の沿岸を囲むように白い線があります。

ここが、どうやら凍結された本庄工区のようです。

たしかにもし干拓地になれば、中海が3分の2ぐらいになりそうな広大な計画です。

 

ただし、中海のこの干拓計画は中止になり水門も撤去されたのですから、行く前に聞いた「宍道湖干拓が影響している水質汚染」というのは宍道湖のどのあたりの、いつ頃の干拓による影響なのだろう。中海と宍道湖の関係はどうなのだろう。

 

漠然と「宍道湖・中海の干拓」とイメージしていましたが、読めば読むほどいつの、どのあたりの話なのか混乱してきました。

当時、この問題に関わった人たちは何を思っていたのでしょうか。

 

同じく干拓地で米を作っていた祖父は、当時、この経緯をどう受け止めていたのでしょうか。

工事が始まった頃、小学生だった私は何も知らずにこの宍道湖と中海を家族旅行で訪ねたのでした。

 

 

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