初めて新幹線に乗ったのが、今からちょうど半世紀前の1970年の大阪万博へ行った時でした。
そして「米原」という駅名を意識したのも、おそらくその頃ではないかと思います。
それより数年前に東海道本線で通過したことがあるのですが、幼児でしたから米原という名前も車窓の風景もまったく記憶にありません。
東海道新幹線に乗って西へと向かう時、関ヶ原を抜けると米原で、琵琶湖の風景とともに「もうじき京都」だと思う駅名です。
でもいつも通過するだけで、昨年、九頭竜川を訪ねた帰りに、北陸本線から新幹線に乗り換えるために初めて米原駅に降りました。
滋賀県内に一つだけという新幹線の駅のわりにはこじんまりしていて、でも乗り換えの人が多くて改札口がラッシュアワーのような混雑になるのでちょっと驚きました。
通過するときに車窓から開けた水田地帯が見えるので、「米原」というのは昔からお米がよくとれる場所という意味なのだろうと思っていました。
どんな街なのだろう、気になっていた場所を初めて散歩してみました。
*米原という地名の由来はどこからきたのだろう*
Wikipediaの米原では、「概要」には交通の要所であったことが書かれています。
交通都市として知られ、古くから中山道と北陸道の分岐点として発達した。市の中心部である米原が北国街道の米原塾にあたり、市域南部を東西に通過する中山道には氷川きよしの楽曲・「馬場の忠太郎」で有名な馬場宿、醒井宿(さめがいじゅく)、柏原宿の3ヶ所に置かれていた。
古くから「米原」という名前があったようです。
ただ、「歴史」については以下のことしか書かれていません。
中世をとおして米原市は京極氏の本拠地として栄えた。京極氏ははじめ清流の柏原宿(現徳源院)を拠点に北近江を治めたが、戦国時代には伊吹山麓の上平寺に京極館を移して動乱に対応した。
地名は、米作りからきたわけではないのでしょうか。
*鉄道と干拓地*
米原市琵琶湖干拓資料館のパンフレットの1895年(明治28年)の地図と現在の地図を見比べてみると、東海道本線が緩やかに蛇行して彦根に向かっている部分が、明治28年の地図ではぎりぎり内湖に沿った場所のようです。
米原駅の年表をみると、1889年(明治22年)に官設鉄道がこの地に敷かれ、1895年(明治28年)に東海道線と線路名が制定された頃のようです。
1889年(明治22年)、現在の東海道本線に当たる関ヶ原ー馬場駅(現在の膳所駅)間と、北陸本線の長浜駅ー米原駅間が開業したことに伴い、両線の接続駅として設置された。(中略)
かつては東海道本線における急勾配区間の一つであった大垣駅ー関ヶ原駅間を越えるための補助機関車を留置する基地、それに北陸本線の起点として機関区が設けられ、多数の上記機関車が在籍していた。
鉄道ができてからも、やはり交通の要所として重要な場所だったようです。
米原の街はどんな感じだろうと、駅の外に出て琵琶湖の方に向かいました。
広い道路があり交通量は多いのですが、ほとんどお店もなく、じきに干拓地に入りました。
Wikipediaの「米原駅」の「歴史」に書かれている通りでした。
米原駅は東海道新幹線、東海道本線、北陸本線という鉄道交通網の観点でいえば存在感があるが、駅周辺に著名な観光地が立地せず、地味な印象が強くなってしまった。
私にとっては、米原市の教育委員会が干拓資料館を設立して歴史を記録しているというだけですごい街だと思えました。
水田と琵琶湖の風景も美しい場所でした。
*本当に「米の原」になった頃を見ていたのかもしれない*
資料館のパンフレットによれば、1949年(昭和24年)に干拓が完成し、「昭和47年(1972年)には揚水場の設備も整い」とあります。
私が幼児の頃に東海道本線で米原を通過したのは干拓地が完成して10数年ぐらいの時期で、さらに1970年の大阪万博に行く頃の車窓の風景は、まだ水門やポンプを整備していた状況だったことになります。
もしかしたら、この米原が本当に広大な「米の原」になる時期を新幹線の車窓から見ていたのかもしれません。
記憶がないことがとても残念ですね。
「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら。