助産師の歴史 9 時代を見誤り、気持ちを変えられずにいる

8年ほど前に書いた日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃を久しぶりに読み返して、漠然と感じていたものが言葉になりました。

それが今日のタイトルです。

 

私が1980年代終わり頃に助産婦学校(当時は「助産婦」が正式名称)で使用していた教科書の、「母子健康センター」に関する記述です。

再掲します。

昭和40年ごろから助産部門に対する産婦人科医からの非難や、嘱託医との助産上のトラブルなど、医療施設との関係が問題となり、昭和42年「母子健康センター設置要綱」が大幅に改訂され、保健指導を主とし、助産は付帯事業とするよう重点の置き方が変わった。

 

今、分娩の歴史を考えれば、医師のもとで安全に分娩をする時代へと1960年代から変わり始めて20数年ほどの時期に書かれたものです。

人類の歴史ではかつてなかった、出産が驚異的に変化した時代といえます。

 

今だから私もそうだったのだと思い返せるのですが、その渦中の時代であれば「この今の時代というのはどういう時代なのか」を見極めることは難しいことでしょう。

 

学生の頃は読み飛ばしていた一文ですが、読めば読むほど当時の助産婦の感情がその行間に見えてくる文章です。あのGHQに対する気持ちが歴史物語をつくるのと同じですね。

 

*非難やトラブルとはなんだったのだろう*

 

教科書では具体的にどのような事例で「非難」や「トラブル」があったのかは書かれていないのですが、冒頭の「日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃」で、丹波の母子健康センターが閉鎖された頃の産科医の先生の言葉があります。

助産婦さんが医師を呼んだが助けられないことがあった。助産婦さんは大分苦情を言われたので気の毒だった。事故をきっかけに利用する人も減り、常勤の医師もいないので、役割が終わったとして町がセンターを閉めてしまった。

 

今は、ほぼ99%の分娩が産科医立会いのもとで行われています。

過去の「助産婦さんが医師を呼んだが助けられないことがあった」は、現在では「産科医が他の産科医や小児科医、あるいは他の診療科医を呼んだが助けられないことがある」「診療所や総合病院から周産期センターに搬送したが助けられないことがある」、あるいは「マンパワーがあり、最高峰の水準の周産期センターでも助けられないことがある」に置き換えられます。

それが妊娠・分娩といえるのかもしれません。

 

当時の医師が助産婦を非難したととらえるか、出産はいつでも母子二人の救命救急という事態になりうるから助産婦だけで出産を扱う時代ではないと説得したととらえるか。

教科書にまでこうした非難されたという感情が記録されているのですから、当時はやはり相当驚異的に変化する時代であることに気づかず、気持ちを切り替えることが難しい人たちが多かったのかもしれません。

 

同じ教科書には出産は母子二人の救命救急であると書かれているのですから、このつじつまの合わなさも、やはり時代の変化の中での混乱を物語っていたのだと、少しその行間を読めるようになりました。

 

 

だからこそ、「正常なお産は助産師だけで」という思想は、時代を見誤ったものであり、たくさんの若い助産師たちを翻弄してしまったのだと言えそうです。

 

「産科医や小児科医とともに分娩に立ち会うようになった」

助産師も、正常な経過だけでなく全ての出産を医師とともに介助するようになった」

その人類の年表の中で驚異的に出産が変化している時代にいきていることが理解できていれば、現場のニーズとも違う民間資格をつくってしまうこともなかったことでしょう。

 

この変化の時代から半世紀ほど経って、気持ちを切り替えずにいる人をどうしたらよいのか。

まだもう少し待つしかないのでしょうか。

 

 

 

 

 

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