水のあれこれ 135 三栖閘門と宇治川

琵琶湖疏水が鴨川に合流する場所を見たあとは、三条駅から京阪本線に乗り三栖閘門(みすのこうもん)へと向かいました。

琵琶湖疏水宇治川に流れ込むところを訪ねてみる」と昨日書いたのですが、実はそれに気づいたのは、家に帰ってもう一度琵琶湖疏水の図を見直していた時でした。

 

Macの地図では冷泉放水口までは「琵琶湖疏水」と書かれているのですが、それ以降は川の名称になっているので、疎水が宇治川までつながっていることに気づかなかったのでした。Wikipediaの説明文をしっかり読めばわかるのですが、いかんせん、内容がまるであの旧約聖書の民数記の幕屋のような記述で、どうも私の頭には入らなかったのでした。

 

行く前に地図を見ていたら、宇治川の川辺に気になる水色の部分があって、「三栖閘門」と「伏見港公園」が目にとまりました。京都の土地勘が全くないので、この辺りが伏見だと初めて気づき、そして閘門があることに興味が出たのでした。

そして、巨椋池の目の前でした。

 

*三栖閘門と伏見港公園*

 

中書島駅を降りると、目の前に満開の大きな白蓮の木が見えて、伏見港公園が広がっていました。中を歩いて数分ぐらいで、三栖閘門が見えました。

残念ながら三栖閘門資料館は感染対策のために休館でしたが、運河を渡りながら宇治川の堤防から宇治川を眺めました。

対岸が元巨椋池なのですが、堤防で向こう側は見えません。ただ、空を遮るようなものもない広大な土地が広がっているのはわかりました。

 

Wikipediaでは三栖閘門の説明がなく、月桂冠のホームページに「港町伏見と三栖閘門  伏見城外濠と宇治川との水位差を調整する運河」という記事を見つけました。

400年前、伏見城とその城下町が造営された際、伏見の街の南側にあった大遊水池・巨椋池の中に大堤防が築かれ、宇治川の流れを北上させ、伏見丘陵の南を迂回させました。街中にも水を引き入れ、城を囲う外堀としました。これが現在の濠川であり、琵琶湖疏水の水流を鴨川運河から招じて宇治川へと運んでいます。

江戸時代あたりからの土木の歴史は、全国、目覚ましいものがありますね。

 

水位差を調整、船舶を昇降し宇治川へと通行させた三栖閘門

伏見の街を水害から守るため、1922(大正11年)、宇治川右岸の観月橋から三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。そのことに伴い1929年(昭和4年)、三栖閘門(みすこうもん)が建設され、宇治川と豪川との4.5メートルほどの水位差を上下させて調整し船を行き来させていました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通行していたといいます。しかし昭和30年代に入って、陸上運輸の発達で貨物船による輸送が減少して行き、1962年(昭和37年)、ついに淀川の舟運はなくなってしまいました。さらに1964年(昭和39年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

 

三栖閘門の計画ができたのも、1904年からパナマ運河工事に関わった青山士氏の影響も大きいのではないかと想像したのですが、その当時の雰囲気はどんな感じだったのでしょう。

そして私が生まれた頃は、この閘門が役割を終えたという驚異的に変化する時代でした。

 

*木幡池と宇治川

 

中書島駅から今度は宇治線に乗り、宇治駅を目指しました。

宇治線は、途中、宇治川に対して大きく「つの字」を描いて山側を走っています。散歩の当日は「宇治川が見えなくなって残念」ぐらいしか感じなかったのですが、今、このブログの下書きを書いている時点で、そこに水色の池のような場所があることに気づきました。

ええ、行く前にも何度も同じ場所を地図で眺めていたのに、目に入っていませんでした。

 

何気なく、木幡駅を検索したら、そこに歴史が書かれていました。

京阪宇治線開業と同時に設置された駅、周辺が宇治川山科川と合流する扇状地で駅西側に木幡池がある水害多発地帯だった。現在のように宇治川の堤防が強化され、山科川の堤防設置と宇治川との合流地点を桃山南口駅の西側移設されたのは昭和になってからだった。

 

年表には1965年までの水害が書かれています。

宇治川周辺の水色の部分をなんとなく選んで歩いたのですが、帰宅してからいろいろとその歴史がつながってきました。

 

それにしても、中書島(ちゅうちょしま)とか木幡(こわた)とか巨椋(おぐら)池とか、京都近郊の地名は読み方がわからなくて本当に難しいですね。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら