玉川上水について言葉で表現できないほどすごいと感じることがあるのですが、その中でも多摩川の水を段丘に乗せて江戸まで流したことに畏敬の念があります。
少しでも勾配が違えば水は逆流してしまったり、途中で留まってしまうことでしょう。
実際に歩いてみると玉川上水も、そして青山上水や三田用水といった江戸の六上水も尾根伝いに作られ、高いところから低いところへと流れるように水量が計算されていることに驚きます。江戸時代ですからね。
また、玉川上水から農業用水として分水された野火止用水の一部区間も以前歩いたことがあるのですが、この千川上水とともにどうやって、無駄なく平地に水を流し農地を潤すことができたのだろうと、歩けば歩くほどその範囲の広さにも驚かされます。
Wikipediaの千川上水に「江戸城の城北地区へ流れた総延長22kmの用水路(上水)」、「分水口付近の海抜は約64m、巣鴨付近は約23mであるから、落差は約41mとなる」とあります。
41mというと、日常の感覚で何に例えたらわかりやすいでしょうか。
私だったら長水路プールの5分の4です。
辰巳国際プールを縦にしたら確かに高さはすごいのですが、長い距離を勾配を考えながらとなると、「たったの41m」のように思えます。いい加減な感覚ですけれど。
実際に歩いてみても、水路の水は勢いよく流れているのにその脇の遊歩道は坂道を歩いている感じでもなく、平地そのものでした。
人海戦術の江戸時代に、どうしてこれだけのことを成し遂げられたのだろう。
江戸時代の測量の歴史にも、驚異的に変化する時代があったのでしょうか。あったとすれば、どんな雰囲気だったのでしょう。
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