先日歩いた千川上水の遊歩道も、玉川上水や目黒川そしてその上流の北沢川や烏山川と同じく、東京都の清流復活事業によって整備されたようです。
東京都による「清流復活事業」(せいりゅうふっかつじぎょう)は、水利環境の変化により水を失ったかつての川や用水路に、下水処理水などを放流することによって、水辺としての水流を復活させようとするもの。処理水の新しい利用法に先鞭をつけ、全国の自治体による"清流復活”の先駆けとなった事業である。
*1960年代の都内の川の役目の変化*
東京都水道局の「玉川上水の歴史」に、1960年代に川や水路の役目が大きく変化したことが書かれています。
昭和40年(1965)年、武蔵水路が完成し、水不足解消の切札として利根川の水が東京へ導かれました。淀橋浄水場は廃止となり、その機能は東村山浄水場へと移されました。
それまで多摩川からの水を主に利用していた都の中心部は、利根大堰と武蔵水路によって利根川の水も利用するようになりました。
そのために玉川上水の一部は暗渠化されたり、水がほとんど流れなくなってしまったようです。
これらの上水/用水はいずれも、1970年代までには生活排水で汚れてしまったり、水を失って空堀化してしまっており、当事業の実施によって始めて水辺としての地位を回復できたものである。(Wikipedia「清流復活事業」)
私が幼い頃、そこが玉川上水だとも知らずに通過していた場所は、川や水路の役目を終えて水がなくなっていた時代でした。
*「玉川上水の保全へ向けた取組」*
東京都水道局の「玉川上水の歴史」に、その保全運動について書かれています。
昭和40年(1965)年、淀橋浄水場が廃止され、通水されなくなった玉川上水の一部が暗渠化されると、地域の人々を中心に、玉川上水保全の運動が起こりました。
都市化の進展とともに、宅地化された緑の少なくなった武蔵野台地にあって、玉川上水は、身近な水と緑の空間として、また、郷土史、文学史等の歴史的背景から、地域の人々に特別な愛着を持たれています。
どのような方々が、どのように話し合いを進めていったのでしょう。
反対意見はどのようなもので、どのようにそれぞれの考え方をまとめていったのでしょう。
もう少し、この時代を知りたくなりました。
*清流復活事業の年表より*
Wikipediaの「清流復活事業」にその沿革の年表が書かれています。
◾︎1986年(昭和61年)8月ー玉川上水に水流を復活。
◾︎1989年(平成元年)3月ー千川上水に水流を復活。
◾︎1995年(平成7年)3月ー城南三河川清流復活事業の送水を開始。
全くこれらのニュースが記憶に残っていないことに愕然とするのですが、野火止用水と玉川上水の水流が復活した時は、東南アジアに住んでいたので仕方がないですね。
水辺を守るに書いたように、当時は東南アジアの風景を見て「川や水辺が自然のままでうらやましい」と強く思っていた時期でした。そういう地域では、一本の川が上水道から下水道の機能を負っていたのですけれど。
80年代終わりころに、偶然、玉川上水を歩いたことがあります。
今と同じように鬱蒼とした木に囲まれた中に、清流が流れていました。ずっと昔からの自然と風景が残されていると感激したのですが、その時には水流が誰かの手によって復活したものだったことさえ知らなかったのでした。
「運動のあれこれ」まとめはこちら。
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