水のあれこれ 139 猿沢池と荒池

少し遠出の散歩を計画している段階では気が大きくなって、なんだかどこでまででも歩けそうな気分になっています。

ところが実際に歩いてみると8割ほどで断念ということが多く、日没までに戻れた分の土地をもらえるというロシア民話を思い出しては、欲張りすぎたと反省するのでした。

 

今回も、計画の段階でおそらく奈良駅に着いた時にはもう歩く気力がないかもしれないと予想がついていました。でも、奈良の街を少しでも歩いて見たいと地図を眺めていたら、猿沢池の上にもう一つ大きな池があることに気づきました。

 

猿沢池は、70年代、80年代に行った時の記憶がはっきりとあります。観光なら必ず立ち寄る場所ですね。

 

ところがその上にある荒池は全く名前も知りません。

どこが水源なのだろうと気になって地図を見ていると、奈良公園の南東の端あたりのようです。その水源を見て見たいと、今回も計画だけは欲張りました。

 

*猿沢の池*

 

柿の葉寿司ととり天そばを食べたら、俄然、元気が出てきました。

 

お店から出てじきに、春日山に向かって上り坂になりはじめるところに猿沢池があります。

記憶に残っている風景でしたが、なんとスターバックスがそばにできていました。

その質素な外観が、池や春日山と似合っています。

 

この池を訪ねること3回目にして、ここが谷津の地形であることがわかりました。目の前の興福寺の敷地から、けっこうな下り坂になったところにあります。

猿沢池の七不思議の話はなんとなく記憶にあるのですが、こういう地形だったのかと見ているはずなのに見ていなかったことに今回は気づいたのでした。

 

 

*荒池*

 

興福寺の五重の塔を眺めながら上り坂を歩くと、じきに荒池があります。

地図でイメージしていた「池」とは違い、西側がまるで堤防のような作りになって水をためている場所でした。

 

そばに「荒池由来の碑」がありました。

奈良はいにしえより有力な河川に恵まれず水に乏しい土地柄でしたが、明治十六年(1883年)明治十九年(1886年)に大かんばつがあり、農家は深刻な打撃を受けました。

そこで、三条村(現三条町)城戸村(現大森町)杉ケ村(現杉ケ町)の各農家の間にどのような水不足にも耐えられるようなため池築造の要望が高まり、明治二十年ごろ三ヶ村からそれぞれ築造委員を選び、各農家から多額の資金を募り困難な大工事の末荒池は完成しました。

この荒池の水は西方の三条池・大森池・杉ケ池に導入され、以来百余年、農家はどのような水不足に際しても安心して米作りにいそしむことが出来ました。

築造以来今日まで、三ケ村の後継者により営々として守り継がれてきた荒池も昨今堤体の老朽化が著しく、平成七年より、県の事業として堤防や護岸の大規模な補強工事が実施されています。

併せて周辺の景観整備も行われ、ため池として造られた荒池が今日では市街地を洪水から守り、また水面に奈良公園の緑を映す景勝の地として生まれ変わりました。

ここに一世紀に渡る三ケ村先人たちの遺徳をしのぶとともに、本事業にご賛同、ご協力を賜った多くの方々に深く感謝し、事業の感性を末長く記念するためこの碑を建立しました。  一九九七年十月吉日

 

荒池は車道で二つに分けられていて、上流側は奈良公園までゆったりと池のそばを歩くことが出来ます。

 

奈良公園内は、あちこちから湧き水が小さな流れになっていました。

鹿と芝生のイメージでしたが、こんなに春日山の斜面から水が流れ出していたのかと驚きました。

 

「奈良はいにしえより有力な河川に恵まれず、水に乏しい土地柄でしたが」

その一文がなんども思い浮かび、そしてあの大和川周辺からこの奈良公園の水が作り出している美しい風景は、十何世紀にもわたる水との闘いによるものであることを知ったのでした。

 

 

奈良駅に戻った時には3万5千歩近くになっていました。

さすがに荒池の水源までいくことは断念しましたが、本当に歩いてみてよかったと思いました。

 

 

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