記録のあれこれ 81 9年前の白子川の散歩の記録

なぜこんなにも都内や全国の川を歩こうと思い始めたのかというと、やはりあの60年代の都内では「死の川」と呼ばれるほど汚かった川が氾濫し、自衛官に担がれて助けられた幼児の頃の記憶が歳を重ねるごとに鮮明になってきたことがあります。

 

その川を訪ねようと歩き始めて、親も私も神田川だと思っていたのは石神井川の支流だったこともわかりました。あんがいと川の名前の記憶というのはいい加減なものです。いずれにしても、ふだん気にも留めないような水の流れがなぜあんなに激変するのか。それを確認したいという思いが日増しに強くなっています。

 

大泉井頭公園の水たまりのような場所から始まる白子川も私の幼児の記憶の川と似ているので、どんな水害があったのか気になり検索したら、「断想」というブログを見つけました。

その2011年11月16日と11月26日に、白子川を歩いた記録がありました。

 

「白子川源流 1 ー練馬区大泉ー」をそのまま紹介しようと思います。

 練馬区大泉は、その名の通り、あちこちから地下水が湧き出でる泉に恵まれた土地だった。終戦後の西武池袋線大泉学園駅周辺は、戦災をほとんど受けず、駅北口の戦前からの商店街は早々に活気を取り戻したが、駅からバス通りを100メートルも行くと、民家はまばらになり、畑と水田が一面に広がっていた。駅南口は、深夜には、無人になるタバコ店と飲食店の仮店舗が10数軒かたまり、その先は、ケヤキの防風林に囲まれた農家が点在し、昼間の人通りは、大部分が、第3師範学校(現、学芸大学)付属小学校と終戦数年前に開校した大泉中学(学制改正後は高校)に通学する生徒ぐらいだった。

 東大泉と保谷町(現、西東京市)に挟まれた南大泉は、昭和30年代に入ってからも大部分が農耕地と森林だった。低地の草むらの所どころから湧水が浸み出し、水は「しまっぽ」とか「しまっぽり」と呼んでいた幅1メートルほどの窪地を伝ってより低地へと向かい、幅を広げ、小川となり、その一部は、灌漑用水として、あぜ道と泥と草の土手で仕切った田畑を潤し、練馬大根などの収穫野菜の洗い場が所どころにあった。春には、川沿いの水田にはレンゲやクローバーのはなが咲き乱れ、カエル、ドジョウ、ザリガニ、タニシを取る子どもの姿があった。この澄んだ水の流れが練馬区、埼玉県和光市板橋区を通り、10キロ先の荒川まで続く白子川の源流とはあまり知られていなかった。

 そんなのどかな田園風景に趣を添える白子川だったが、その源流は、しばしば梅雨時の集中豪雨で川の水が溢れ出し、谷間の田畑、住宅地に繰り返し浸水被害をもたらした。昭和50年代から河川整備、下水道整備が都の豪雨対策計画に従って始まり、現在も続いているが、近年では、平成13年7月の集中豪雨によって、大泉地区では40棟が、また17年9月には練馬区と埼玉県和光市の境を流れる越後山橋流域で77棟以上が床下・床上浸水被害を受けた。

 戦後の白子川氾濫の主な原因は、昭和30年代からマイホームを求めるニューファミリーの要求に答え、地価の安い農地、森林の宅地化が進み、一戸建ての建売住宅が増える一方で、それに対して土地行政が追いつかなかったことだ。白子川流域の水田も、埋め立てて宅地化する乱開発が行われ、道路はアスファルトで簡易舗装され、住民の増加は、高度経済成長期に入ると一層加速し、西武池袋線の多い瑞学園駅を中心に低層の公共アパートやマンション建設が進み、商業地や学校などの公共施設が増え、路線バス網も拡大する。いわゆるスプロール現象が進行した。その結果、雨水の大部分を吸収していた森や畑地は減少の一途をたどり、急激に増え続ける家庭からの排水が浄化されないまま下水溝から白子川に流れ込み、昭和4、50年代には汚泥の匂いを発する川が、しばしば豪雨の後、洪水となって流域を襲った。

 今では、白子川の源流付近(上の写真)は、すっかり整備され、湿地帯にあった溜池は児童公園へ変身し、川の氾濫を防ぐためにもとの水路をかえ、川床を掘り下げ、護岸をコンクリートで固め、雨水や家庭排水を流す下水道が整備されるに従って、白子川は源流から1.5キロほど先まで湧水が姿を表した。青々とした水草に交じって地元の人の手で放流された真鯉、緋鯉がカルガモと泳いでいる。

 川底のところどころに汚れた板状のものが置いてあるのを見かける。これは、水質汚濁防止の浄化槽で(下の写真)、保谷町の方から東大泉地区へ下水管を伝わって流れてくる雨水と家庭排水を白子川本流の合流地点で、川底を掘り下げ、コンクリート製のU字溝のようなブロックを並べ、その上を繊維状の網で覆い、川底に沈殿する汚泥を定期的に清掃、除去する設備だ。そのお陰ですんだ川には、いつも水生植物が生え、コイや野鳥が生息できる環境が保たれ、川岸の遊歩道を行く人の目を楽しませている。

 豪雨による洪水防止対策として、下水道の整備のほか、アスファルト道路舗装に代えて雨水が地中に浸透できる材質のものが20年以上前からつかわれているが、交通量の多い道路の舗装には強度から不向きという限界がある。

 また、下流地域の水害防止対策として、増水した川の水を一時溜めて、とどめておく調節池(上の写真)が平成13年、比丘尼橋の側にでき、徐々にではあるが、白子川は住民の協力も得て、綺麗な流れに向かっている。いま、ボランティアの集まり「白子川源流・水辺の会」の間で、水質の良くなった白子川上流に荒川からアユを呼びたいという声が高まっている(「白子川源流通信」2011年8月号)。

 

★今回の記事作成に当たっては、東京と総合治水対策協議会編「白子川流域豪雨対策計画(平成21年11月)」と白子川汚濁対策協議会編「白子川を知っていますかー水辺再生に向けて」(平成6年)を参考にしました。

 

 

白子川上流域の地形とその変化の歴史が手に取るようにわかる記事でした。

 

散歩をした後に検索すると、こうした喉から手が出るほど欲しい「当時の生活を垣間見る記録」と出会い、幼少時からの記憶がより鮮明になっていきます。

 

 

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