実篤公園と入間川を歩いたあと、地図を見直していたら、野川の右岸側にある緑地公園が気になり始めました。
神代団地のあたりに「野川緑地公園」が蛇行した長細い緑色で描かれ、もう少し下流の野川からはだいぶ離れた狛江第一中学校のあたりにも同じような「野川緑地公園」が描かれています。
その間には道は描かれていないのですが、住宅街にこの二つの場所を繋ぐように蛇行した空間が描かれているように見えました。
もしかすると、野川の昔の流れかもしれない、遊歩道があるかもしれない。
ということで翌日、今度は小田急線喜多見駅から京王線つつじヶ丘駅に向かって、右岸側を歩いて見ました。
*野川右岸の緑道を歩く*
喜多見駅を出て電力中央研究所の前の道路を歩くこと10分、すでに心の中で後悔し始めていました。
今年はようやく8月に突然梅雨明けした感じで、夏の日差しにまだ体が慣れていないかもしれません。引き返すなら今だと思ったら、木でできたベンチが目に入り、そこから緑道が始まっていました。
両側が高い木で囲まれ、それまでさしていた日傘もいらないくらいです。
住宅の間を蛇行しながら遊歩道が続いていました。
木陰の涼しい風と蝉の声、小さな畑が残っていたり、飽きることがありません。
これなら歩き通せそうと、砂利道を歩き続けました。
現在の野川からは数百メートルほど離れた場所です。
昔の川の流れを感じながら歩いていると、「大橋通り」に出て、「大橋改修記念碑」がありました。その反対側には大きな農園があり、神代団地との間を歩いていると野川へと出ました。
80年代90年代には、世田谷でもこんな感じの農地があちこちにあったのを思い出しました。
野川の両岸には神代団地が広がっています。2年前にこの辺りを歩いた時に、「野川のまっすぐな場所」ぐらいしか思わなかったのですが、神代団地の説明を読んで、団地が建てられた頃に野川もまた流路変更で新たにこの辺りが開削されたことを知りました。
団地敷地を河川が横断しているため、神代団地には調整池が無い。しかし団地建設当初は野川の大規模な流路変更の途上に当たっており、新しい流路は都道114号線の付近で止まり、下流はまだ開削中で、先行して整備された団地内の流路部分は、現在の護岸に沿って高谷橋付近を中心にした池となっていた。
*野川の流路変更*
野川(東京都)の「昭和の流路変更」を読むと、1965年の神代団地の入居開始より後の1967年から現在のまっすぐな野川が開削されたようです。
1967年(昭和42年)になって六郷用水も川の流路を失わない範囲で大部分が埋められ(一部が野川緑地公園と滝下橋緑道に整備)、野川の流路を流路を東に寄らせる改修が行われた。野川は狛江市街に入らずに調布市と狛江市の市境付近に新たに開削された。それより野川も入間川との合流点を作り、さらに少し下流のきたみふれあい広場(小田急電鉄喜多見車両基地)付近では旧入間川より数百メートルほど東に野川が開削され(西側の従前の入間川は埋められた。狛江ハイタウン前からきたみふえらい広場までは道路および遊歩道にmなっている)、さらに下流でも治太夫堀開削以前の入間川に近い流路がとられた。また、この開削された川も全区間野川と称した。
ああ、なんと、私が小学生の頃に小田急線でこの辺りを通過していたのは、野川が開削されたばかりの風景だったのですね。何も記憶にないことが残念です。
入間川も江戸時代には現在の玉川付近まで流れていたようです。
この地に越してきて10年ほどで大きく変化していく風景を、武者小路実篤氏はどんな風に感じていたのでしょうか。
地図で見つけた緑道から、野川の歴史をまた知ることになりました。
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