水のあれこれ 152 神通川と松川

今回の散歩は、富山市で半日、ゆっくりと歩いて回れるようにと計画しました。

 

イタイイタイ病資料館をでて、富山駅に戻るために国道41号線を通るバス路線に乗ることにしました。途中、熊野川を渡りますが、イタイイタイ病の「農地被害」にある支流だとつながりました。

カドミウムの汚染田は、神通川によって形成された扇状地にある。右岸は熊野川井田川に囲まれる範囲で、八尾町(現富山市八尾町)以外の地域は「イタイイタイ病地域」に含まれる。

たくさんの用水路に豊かに水が流れていて、歩くだけで楽しい場所でしたが、大変な時代があった地域でした。

 

富山駅行きのバスに乗り、「総曲輪」バス停で途中下車しました。読めないし、一度聞いただけではすぐに読み方を忘れるバス停名ですが、「そうがわ」で、Wikipediaには「元々は富山城の外堀であった」とあります。

そのバス停からまっすぐ神通川に向かうと、富山護国神社があり、その横から富山城に向かって水路が引かれ、さらに富山駅を超えて富山赤十字方面へと緩やかに蛇行しながら流れて、途中から富岩運河が神通川と並行しながら富山湾に流れています。

 

大垣城と水門川のように、富山城の堀に神通川から水を引いたのだろうと想像して、ぜひこのあたりを歩けるだけ歩いてみたいと計画していました。

 

*松川と松川水門*

 

水色の川は「松川」と呼ばれているようで、護国神社の裏手に松川水門がありました。

富山市内を流れる松川には、水量を調節するための水門がつくられています。松川や神通川の増水時には、松川水門と松川放水門を操作することで、富山市内と水害から守っています。

 

その水門から松川沿いに遊歩道が整備されていたので、歩いてみました。

 

途中で遊歩道の横に金比羅神社があったのですが、なんと鳥居を挟むように参道が駐車場がわりに使われている不思議な光景でした。

神様に怒られないかと心配しながら、由来を探してみました。

 神通川安政二年のころたびたび大洪水を起こし堤防が決壊し、河川は大はんらんした

当時七軒町在住の漁師余川氏の夢まくらに 我は金比羅大権現にてこの洪水によって飛騨の高山よりきたれば この地に祭事を行うようとのお告げがあった

夜明けを待って神通川(現在の金比羅神社横)へ駆けつけたところ お告げ通り檜材の上に石の御神体が流れ着いておられるのを発見した

御神体はひとまず鹿嶋神社に仮安置申し上げた

当時 現在の場所は数百年の年号を経た欅や榎が生い茂る森厳なところであった

安政五年神社建立の際 その中の何本かを国より払い下げていただき 金比羅神社の本殿並びい拝殿の建立にあてた そして 舟運安全 家内円満 商売繁盛などを司る河川の守護神として七軒町住民一同の手でお祭りするようになった

その後 病気平癒祈願のため近郷近在より多数の人々が参詣され 霊験あらたかな神として信仰を集めている

 

私のパソコンのマップでは最大に拡大しても載っていない小さな神社でしたが、水の神様だったようです。

 

しばらく歩くと、松川は東の富山城の方向へぐいっと曲がっています。

そこに「舟橋と神通川」という説明版があり、今回歩いてみようと計画していた「水路」が、実は旧神通川であったことがわかりました。

 前田利長は慶長11年(1606年)頃、小島町と対岸船橋間の舟渡しを船橋に改めた。寛文元年(1661年)頃、富山藩初代藩主前田利次は、加賀藩との領地替えを機に城下町の再編にかかり、この場所に船橋を移した。構造は、船穴四艘を雌雄二条の鉄鎖でつなぎ、その上に板三〜四枚を敷いたものであった。

 手伝町の町年寄内山権左衛門は、船橋の幅が狭く、川に落ち溺死する人が多いので、寛政11年(1799年)両岸に常夜灯を寄進した。さらに文化4年(1807年)九代藩主前田利幹の命により、船橋の板を二枚増やし、五〜六枚となった。

 明治15年(1882年)12月、船橋は幅四間(7.2メートル)長さ一二七間(228.6メートル)の木橋に架け替えられ「神通橋」と命名された。

 明治36年1903年)、改修工事により神通川本流は西に移り現在の流路となり、この地帯は廃川地と呼ばれ、昭和10年(1935年)までに埋め立てられた。

 松川といたち川の下流は、旧神通川の名残である。

       平成14年 富山市

 

昨年、北上川をまわった時に「昔は舟と舟をつないだ橋だった。だから『ふなはし』という地名は大事だね」とタクシーの運転手さんに伺った話を思い出したのでした。

 

神通川の河川改修事業*

 

Wikipedia神通川に「河川改修事業」についてまとめられています。

1918年、大沢野町から河口までの約20kmの川幅を広げ、両岸の護岸を統一的に見直す改修事業が開始され、予算や工期を見直す等して、1938年3月に完了した。

かつての神通川は、富山の街の中を東に大きく蛇行し、河口が現在より西側に位置していた。戦国時代には神通川のすぐ脇に富山城が築城され天然の堀として利用された。この際、佐々成政によって洪水による流路変更を利用して富山城の北側に流れるよう流路を付け替えている。

しかし蛇行部分でたびたび水害が発生していたため、明治時代に、蛇行部分を短絡する分流路を作り、一定量を超える洪水は、新たに作った分流路(馳越線)に流れるようにした。しかし、洪水の度に、馳越線の方が本流のようになり、本来の本流には水が流れないようになってきたため、馳越線の方を本流とした。馳越線工事後の旧川については、水の流れを締切理、水が流れなくなった部分には1930年から建設が始まった富岩運河から出た大量の土砂で埋め立て川幅を狭め、旧来の本流は松川と名を改めた。埋立地となった廃川敷には1936年には町名が設定がなされ、日満産業大博覧会の会場となるなど区画整理と土地利用が徐々に進み、県庁、市役所などの施設が建設されて行った。

 

現在の富山駅周辺は2015年の北陸新幹線延伸に伴う再開発で、すっきりと美しい街に路面電車が走っていて、古いものと新しいものがうまく混じり合ってとても落ち着いた街の印象でした。

その理由が城下町だからかと思ったのですが、江戸時代から何度もその城下町と神通川の関係が変化していたようです。

富山駅の説明に「1901年(明治34年)当時の富山市区域拡張予想図」があるのですが、富山駅に降り立った時に広場のすぐ向こうに神通川の堤防が見えるくらい低地にあることの理由がつながりました。

 

ところで、神通川は「じんつうがわ」だとばかり思っていたら、Wikipediaの最初に載っているのは「じんずうがわ」でした。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら