記憶についてのあれこれ 161 パラノイア

1980年代半ば、インドシナ難民キャンプで一緒に働いていたアメリカの大学生から聞いた英語です。

「I'm  paranoia」でしたか。

普段は明るい彼が、急に険しい表情になるのでした。

 

当時持参していた薄い英和辞典を引いてみましたが、「妄想」と簡単な説明だけです。

1980年代半ば、私にとって「妄想」というと分裂病(現在の統合失調症)、うつ・躁鬱、てんかんという三大精神病のうちの「分裂病」の症状でした。

精神科看護の教科書では、まだアメリカの精神障害の診断と統計マニュアルについては書かれていなくて、看護の対象としての精神科疾患はおもにこの3つでした。

 

でも目の前にいる彼はそこまで精神的に病んでいるようには見えなくて、アメリカのスラングのようなものなのかと深く考えずに、ただこの言葉だけが記憶に残りました。

 

帰国して数年もすると、日本でも私が学生時代に習ったこともない精神疾患名が急激に増え、DMSに関する参考書も増えました。そして臨床で出会う患者さんだけでなく、同僚の中にも増え始めたのでした。

 

パラノイア」はスラングではなく、現実に広がっている社会の変化の何かだったのだのですね。

 

 

*妄想のさまざまな広がり*

 

社会の変化として感じ始めたのが、漫画やゲームが急速に広がったことでした。

それまでは「子ども時代のもの」といったイメージだったものが、年代に関係なく関心を持ち続けて発展し続けていることです。

私自身も高校生ぐらいまでは漫画を読んでいましたが、しだいにあの色彩や絵づらの視覚的な刺激が苦手になり、漫画の好みの限界は静かな絵の四コマ漫画ぐらいです。

 

もうひとつ苦手になった理由は、現実と妄想の世界を切り替えることが面倒という点があります。

この「Calvin&Hobbs」とかスヌーピーといった漫画も、実際には動いたり話したりするはずのないぬいぐるみや犬が会話をし、主人公と行動しますから、妄想の世界です。

着ぐるみが流行り出した時も、子ども時代に卒業したはずのぬいぐるみと会話するような感覚が違和感がありました。最近はだいぶ慣れましたが。

 

90年代頃からでしょうか、医療・看護関係のテキストにも漫画で表現するものが増えたのは。

文字で理解していた私にはかえって理解しにくくなったのですが、これも時代の変化かもしれません。

でも、そこに描かれているスタッフや患者さんの表情とかしぐさひとつとっても、作者の意図する固定観念や価値観を排除できないので、少し偏ったものに見えてしまうのです。

 

そうこうしているうちに、漫画やゲーム以外の現実生活も、現実と妄想の世界の境界線が曖昧になってきました。

 

例えばドラマもどこまでが妄想でどこまでが現実なのかわかりにくいシュールさが面白いと思うこともあるのですが、自力出産というファンタジー(妄想)のように現実のリスクを越えてしまう危うさや、善意と正義感まで広がっていったように思えるのです。

 

それで思い込みと妄想というタイトルができました。

 

たぶん、ずっと遡っていくと、あの1980年代に初めて聞いた「パラノイア」に行きつくのだと、最近つながりました。

あの時代あたりから、ヒトの精神の深淵を日常的に感じなければいけない時代に入ったのかもしれません。

彼にとって現実とは何で、どんな妄想と闘っていたのだろう。

そして私にとっての現実とはなんだろう。

 

 

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