高校生ごろまでは、私もそれなりに漫画を買って読んでいました。
「りぼん」とか「マーガレット」、「セブンティーン」といったいわゆる少女雑誌で、「白馬に乗った王子様と出会う」といったら身もふたもないけれど、妄想の一種ですね。
それでも、当時の漫画は主人公が自分の周囲にいるような「普通の」女の子だったので、夢中になったのだろうと思います。
ただ、しだいに顔の3分の1を占めるのではないかと思うほど誇張された大きな目がギラギラと輝くように描かれたり、手足がとても細くてのちのスーパーモデルといわれるような女性の体型に近くなり、現実離れしていく絵に興味がなくなっていったのだと思います。
これはたんに好きか嫌いかの話。
また背景とか色彩とか、しだいに絵づらが激しく描かれるものが多くなって、見るのが疲れて漫画から離れていきました。
1970年代ごろまではまだ最初の1〜2ページだけが特別にカラーで、あとは白黒の世界だったので、自分のこのみに合わせて頭の中で色をつけられていたのだと、思い返しています。
80年代に入って、20代の頃はルポタージュとかノンフィクション、あるいはノンフィクションに近い小説に没頭していましたが、やはりどこか空想上の話も欲しかったのでしょう、カルビンとホッブスを読み始めました。
現実のようで空想の世界なのに、でも現実のようでもありと、好きなように妄想できる楽しさがありました。
新聞なので白黒だったはずなのに、思い出す場面は、自分で色をつけたシーンというのも面白いですね。
*「受け手の主観によるところ」の新たな絵*
90年代に入るとさらに活字中毒になり、1ヶ月に数十冊ぐらいは軽く読んでいました。
当時、読み始めた本の雑誌の挿絵に、こんな絵もあるのかと驚きました。
最初に見たときは「素人のような変な絵だなあ。輪郭の線も頼りなくて、ところどころ途切れているし」と、驚きました。
きっちりと構図が決められて、少しでもその線がずれると本当に下手な絵になりそうな従来の漫画とも違う絵でした。
「ヘタウマ絵」と呼ばれていることを知りました。
ヘタウマ(下手上手、ヘタうま、下手巧とも)とは、創作活動(なかんづくサブカルチャー)において技巧の稚拙さ(つまり「ヘタ」)が、帰って個性や味(つまり「ウマい」)となっている様を指す言葉。技術がヘタで美術的センス、感覚がうまい、つまり技巧的には下手であるが人をひきつけて止まない魅力があるものを指す。ただし、稚拙さを技術不足とするか、計算や個性、あるいは味と捉えるかは、受け手の主観によるところが大きいため明確な定義は存在しない。
(Wikipeida「ヘタウマ」)
椎名誠氏のハラハラドキドキとさせる冒険記の裏話にその挿し絵があったことで、現実感が増すような不思議な絵でした。
しだいに、なんとうまい絵なのだろうと楽しみに見るようになりました。
ヘタウマなのに、現実の人間味を感じさせる。
そんな感じの絵でした。