散歩をする 253 野火止用水を歩く

秋になって気温が下がったら、ぜひ今年こそ歩こうと思っていたのが野火止用水でした。

 

数年前から都内の比較的近い場所から散歩を始めたのですが、ゆくゆくは武蔵野台地を潤した玉川上水と野火止用水、そしてそこから分水された水路を歩いてみたいという計画がありました。

玉川上水から幼少時の記憶がつながり、半世紀以上前の風景を確認するために歩いています。

 

3年ほど前に野火止用水の一部も歩いたことがあります。あの時は、西武多摩湖線八坂駅から玉川上水からの分水口へ向かって歩きました。

両側が雑木林のように木で覆われていることが多い玉川上水に比べると、小川か用水路の趣でしたが、広大な農地だったのだろうと思われる平野を歩き、そして武蔵野台地の起伏が残っている野火止緑地の小さな渓谷を歩きました。

東大和駅駅前に出ると、そこには東京と薬用植物園とその敷地の雑木林が広がっていました。

玉川上水駅まで歩き、そこからバスに乗って立川駅まで戻りました。

 

今回は、反対方向へと歩く計画です。

 

*久米川から新座まで*

 

八坂駅西武線久米川駅は300mほど離れているのですが、その間、野火止用水は暗渠のように地図では見えるので、今回は久米川駅から歩くことにしました。

 

駅から暗渠部分を少し歩くと、新青梅街道との交差点から開渠で保存された野火止用水が再び始まり、遊歩道が整備されています。大きな樹木に囲まれた部分もあり、玉川上水と似ています。

野火止通りに沿ってただただ歩くのですが、水の流れと木々があるので全く苦になりません。

まっすぐこのまま歩くと、小金井街道野火止用水がある水道道路に分かれますが、今回はその手前の部分で野火止用水を離れて、黒目川へと向かいました。

 

その理由のひとつは下里氷川神社があること、もうひとつは幼児の頃に工場見学をした記憶があるコカコーラの工場がまだ地図にあるので、是非みてみたいと黒目川沿いを歩きました。

幼児の記憶では、砂ぼこりの舞う畑が広がった東久留米ですが、こんなに美しい川がそばにあったことに驚きました。

 

野火止用水へは、河岸段丘の上り坂を歩いて戻りました。黒目川があっても、この段丘の上には水がなかったのだと実感する場所です。

 

小金井街道と水道道路の交差点からは、まるでくさび形のように新座市東久留米市の都県境があり、ここからは新座市の管理する野火止用水を歩きます。

野火止用水から広い畑が広がり、さらにさまざまな年代の建築様式から、そこが宅地として開発されている変遷がわかる場所です。

承応2年(1653年)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を改作した。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応4年(1655年)に火神の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じ、野火止用水を作らせた。工期は40日、約24kmを掘り切った。費用は3000両だった。玉川上水7、野火止用水3の割合で分水した。主に飲料水や生活用水として利用され、のちに田用水としても利用されるようになった。

開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行った。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆守掘と呼ぶようになった。 (Wikipedia野火止用水」)

 

ところどころに、この野火止用水と「伊豆守」についての説明がありました。

 

史跡公園の前で水道道路と分かれると、別世界のような畑が広がりました。しばらく行くと、本多緑道が整備され、江戸時代の雑木林にでも迷い込んだような場所でした。

数分ぐらい林の中を歩くと新座市民総合体育館があらわれ、「現代」に舞い戻った感じでした。

 

伊豆守の墓地がある平林寺とその先にある野火止用水公園まで歩く予定でしたが、夕暮れになったので時間切れとなりました。

ここからバスに乗って東久留米まで戻りました。

 

新座市民総合体育館の横に、玉川上水から野火止用水の全体図がありました。

私がイメージしていた一本の野火止用水ではなく、途中、大きく4つに分かれ、さらに新河岸川方向にまるで動脈網のように水車で分水されているようです。

 

野火止用水を歩く」

終わりに近づいたのではなかったのでした。

 

 

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