2日目は北陸道の海岸線を見る散歩です。
8時48分に金沢を出る特急しらさぎ56号に乗り、最初は敦賀まで車窓の旅です。
金沢は4回も通過した仙台と同じく、これで通過すること3回です。
1日目の夜にホテルでテレビを観ていたら、金沢周辺の興味深い番組が2つありました。観光ブームにするという感じではなく、その地域の地形や生活に密着した、なんとも地に足ついた内容でした。こういう番組を全国どこからも観られるといいですね。
ということで、次回は通過することなく散歩をする計画ができました。
*潟の下見*
金沢駅を出るとじきに犀川を渡り、しばらく住宅地が続いたあと水田地帯が広がります。一面、黄緑色のひこばえと、真っ青な空を映して水路が縦横無尽に通っています。
美川駅が近づくと向こうに海が見えました。
そして美川を渡り、小松市に近づきました。いよいよ潟が集まっている場所を通過します。
小松駅の手前の川に梯川が流れていて、「はしごがわ」かと思ったらかけはしがわでした。
寛永17年(1640年)に既にあった船橋をより強固な橋に架け替えた。この橋は川の増水の時に橋板を増し、平水の時には橋板を減らし、洪水を予見した時には橋板を外して舟の流出を防ぐ仕組みを取っていたため、「かけ橋」(梯)と名付けられた。
ああ、本当に舟橋という地名は大事に通じますね。この歴史を読んだだけで、ここも歩いてみたいと思いました。
梯川を過ぎると、下流で梯川に合流する前川を越えます。これが木場潟からの流出河川のようです。
潟よりも線路側の方が少し高い場所を通過すると、今度は柴山潟に向かって緩やかな下り坂になっています。
周辺には田畑が整然とあって、潟へと流れ込む小さないくつかの川には遊歩道があり、地元の方がのんびりと散歩をしている様子が見えました。
いつか、あそこを歩いてみたいものです。
それにしても石川県内には、大きな河川がありませんね。隣り合う富山や福井とはまた違う、水との歴史があったのだろうと、またまた興味が広がりました。
*北国街道沿いに敦賀へ*
柴山潟を過ぎて大聖寺駅のあたりは赤い瓦の屋根の家が多かったのですが、また真っ黒な瓦の集落になり、ところどころに石造りの小さなダムのようなため池が見えました。
ここまでは平野に北陸新幹線の高架が建設されていましたが、ここからは福井県との県境の山になるので、あちこちでトンネル工事が進められていました。
熊から守られますように、そしてこれから寒さと雪の季節の中での工事が無事に進められますようにと思いながら、新幹線の建設現場を眺めました。
また開けた風景になりました。懐かしい九頭竜川がつくりだした福井の風景です。
蕎麦を植えている水田が多くなりました。周囲を四角く稲のひこばえを残している水田がありましたが、あれは何をしているのでしょう。知らないことばかりです。
懐かしい鯖江の美しい風景を過ぎると、日野川にそって国道と鉄道が山間部へと入っていきます。
そこに北国街道という文字が見えました。「きたぐに」かと思ったら、「ほっこく」と読むのですね。日本語は本当に難しいですね。
北国街道(近江)ー中山道の鳥居本宿(とりいもとじゅく)(滋賀県彦根市)のはずれ、中山道・北国街道追分(滋賀県彦根市下矢倉町)から琵琶湖の北東岸を北上し、長浜、木之元をへて福井県今庄で北陸道と合流し福井へと通じる街道。また、中山道・北国街道追分(彦根市下矢倉)から北国街道追分(新潟県上越市本町)に至る街道全体を北陸道と考え、この北陸道を近江では北国街道と読んだとする考え方もある。
ちょうど晩秋の紅葉の山々と真っ青な空のもと、山あいへと列車が入っていきました。
今庄駅の手前に国鉄慰霊碑が見えました。
今庄の街は、それまでの真っ黒な瓦ではなく灰色の瓦の家々で、まるで時代劇の撮影現場かと思うような美しい集落が続いていました。
なんだかかなわないなあと沿線の風景に圧倒されていたら、敦賀に到着しました。
北陸新幹線開業に向けて、真新しい駅舎でした。
乗り継ぎ時間は30分しかなかったので、敦賀の街や敦賀湾は見ることができず残念でしたが、また次回ということにしましょう。
そういえば過去のブログで敦賀について何か書いたような記憶があると思ったら、敦賀市営のサンゴヤが1970年代まであったことでした。
私が高校生の頃ですから、この40年ほどの驚異的な変化に「現代」とはいつのことをいうのだろうと混乱したのでした。
「散歩をする」まとめはこちら。