行間を読む 99 切通しの歴史

黒目川の左岸側の段丘の途中にあった馬場氷川神社の真横に関越自動車道が走っていましたが、のぞき込むと足がすくみそうに深く掘られています。

9月に訪ねた新潟県立大潟水と森公園の横を通過していた北陸自動車道もこんな感じでした。

 

自分で運転をしないので高速道路といえば東名・名神高速道路で私の頭の中の地図は止まっていましたから、いつの間にこういう場所が全国に増えたのだろうと最近、驚いています。

 

国分寺崖線を切り通した東名高速道路

 

こういう山の間を切り開いた道を切通しということを、子どもの頃に知ったのですが、最初に認識したのは東名高速道路でした。

両側あるいは片側の山がざっくりと切り取られたような場所をなんども通過します。

都内へ入る直前に、両側が高くなった場所が国分寺崖線であることに、3年ほど前初めてつながったのでした。

 

つまり、都内から多摩川を渡って川崎にいくためには、この国分寺崖線を越えるという難関が、当時はあったということでしょうか。

だから世田谷のあたりは崖の上のような場所で、今でこそ開発された街ですが、1970年代から80年代はまだまだ農地が多かったのでしょうか。

 

もしかすると、対岸へ通じる道への熱い想いがあったのではないか、そんなことを考えつきましたが、事実はどうでしょうか。

 

切通しという技術はいつ頃からだったのだろう*

 

私が世田谷に住んだ頃にはもう、東名高速道路国道246号線の橋も今と同じようにありましたから当たり前のように通っていたのですが、その20年ほど前の風景や住む人の想いはどうだったのだろうと気になり始めています。

 

東名高速道路関越自動車道、そして北陸自動車道の霧通し部分を上から眺めたり、8月に武蔵野線が山を削った中に通り、水子貝塚を訪ねた時におそらく人の手で開削したのだろうと思われる切通しの道を歩くなど、切通しを意識することが多い一年でした。

 

 

切通し(きりどおし)とは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道である。

トンネル掘削技術が発達していなかった明治以前には、切り立った地形の難所に道路を切り開く手段として広く用いられた。現代でも、工事費がトンネル掘削費用と比較し、安くあがる場合には用いられるほか、古い狭隘道路のトンネルを拡幅する際、土被りが浅い場合など地理的要因によってはトンネルを取り壊し切通しに作り変える場合があった。

Wikipedia切通し」

 

切通し」の歴史を知りたい。

新たな散歩のテーマになりそうです。

 

 

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