鶏が先か卵が先か 4 「失敗を認める」ことが先か、「失敗を赦す」ことが先か

そういえば「鶏が先か卵が先か」なんてタイトルも作っていたことを、ふと思い出しました。

 

「3密」「マスク着用」「手洗い」が基本なのはわかるのですが、感染対策で具体的にどんな行動に気をつけたらよいか反対に何が意味がないあるいは逆に弊害があるか、ここまでわかったという点が統一された情報としてなかなか伝わってこないのはなぜなのだろう、と考えています。

 

おそらく、患者さんに直接対応している保健センターや感染症受け入れ施設の方々、あるいは専門分科会の方々などはかなりはっきりと原因をつかんでいたのでしょうが、12月25日の会見で、ようやく初めて公に明確にされたという印象をもつぐらい、「夜の街」「会食」「飲食を伴う」といった漠然とした表現に置き換えられてしまって、生活の中で具体的にどう気をつけたらいいのか溢れる情報の中で大事なことが伝わっていないのかもしれません。

 

「わからないこと」はわかったことにはしてはいけないですし、また、あまり具体的な状況を書くと個人が特定されて誹謗中傷されるリスクをおもんばかっているのだろうと理解していますが。

 

 

ヒヤリハットがうまく浸透しない*

 

ただ、あの三毛別羆事件とヒューマンエラーで引用した、「どう気をつければいいのか、までは教えてくれなかった」「現場の判断だけに任せている」という言葉を思い出しています。

 

「どう気をつければよいか」

三毛別羆事件でも、「単なる伝聞情報だけで書かれたものや、過剰な脚色が入ったっものもあり、客観的な事実が掴めなかった」と書かれています。

今はテレビやインターネットで、こうした非常時に膨大な情報が流れますが、「伝聞情報だけ」「過剰な脚色」は当時と変わらない問題点かもしれませんね。

 

お忙しい中、感染症関連の方々が様々な情報を伝えてくださっているのですが、「飲み会やパーティで感染拡大した」あるいは「職場の洗面所での歯磨き」とか「喫煙所での会話」という知りたかった事実さえ、一般社会にはまだまだ伝聞レベルにしか伝わりにくく、「気をつけかた」に混乱していると言えるかもしれません。

 

最前線にいる方々には「こんなに伝えているのに」と庶民への呆れになるのでしょうが、こちら側には医療関係者でさえも具体的な事例の情報を把握することができないので、現場の判断でなんとかするしかない感じです。

 

まあ、これが非常時の混乱といえばそうなのですけれど。

 

*感染した人の個人的体験談の限界*

 

11月ごろに関東でもまたホテル療養者が増え、ネット上にその経験を伝えてくださる方が増えました。

どんな状況なのだろうとその経験談を追っていましたが、多くが「ホテル療養に必要な物品」「症状のつらさ」といった内容でした。具体的で参考になりましたが、「感染のきっかけ」が書かれていたものはごくごくわずかでした。

 

おそらく、それを書くことで個人が特定されてしまうことや、はっきり感染経路だと言い切れない場合などもあることでしょうから、それも仕方がないのかもしれません。

あるいは療養中の体調が悪い中に他の人のためにと状況を伝えてくださっても、社会から責められる風潮もまた、事実を伝えることを躊躇するかもしれません。

 

*「失敗」と思いたくない*

 

「感染のきっかけ」を具体的に書く人が少ないのは、自分の行動が感染につながったことを薄々自覚していても、それを認めたくないという気持ちもあるかもしれないと想像しています。

ですから、「失敗」を認めたくない気持ちを合理化しようとして、「どこでかかったのかわからない」と思い込もうとするかもしれないと。

 

個人的体験談は貴重ですが、効果を示すものではないと同じく、「失敗の教訓を正確に伝えてくれるものでもない」あたりでしょうか。

 

感染したことが「失敗」ではなく、感染につながる行動をしたというヒヤリハットを認めるというのは、まだまだ一般社会では難しいことなのかもしれません。

「インシデントを認め、報告する」歴史もたかだか半世紀ですからね。

 

そうそう、今日のテーマの「鶏が先か、卵が先か」は、感染した人を責めないという社会の雰囲気は大事だけれど、社会にあまねく失敗学が根付かないと、ただの同情だけで次に活かせる教訓は得られないのではないかと思ったのでした。

 

 

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