散歩をする  274 狭山丘陵の山すそを歩く

阿豆佐味天神社から民家園を訪ねたあとは、野山北公園自転車道に続くトンネルを目指しました。

 

青梅街道が狭山丘陵の山すそに沿って通っているのですが、それよりももっと山側の道をあえて選んで歩きます。

それほど高くない狭山丘陵の近くには、どんな町があり、どんな生活があるのだろう。

そんなことを確認したくなったのでした。

 

*青梅街道の記憶*

 

五日市街道と小金井街道の交差点にある玉川上水付近の風景に記憶があったのですが、小学生の頃から小平霊園へのお墓参りはこの小金井街道から五日市街道に入り、そして途中で青梅街道に入るルートでした。

 

その頃に青梅街道の名前を覚え、1970年代終わりに再び都内で生活するようになった頃、東高円寺のあたりで懐かしいこの街道名を見つけました。

その後、小河内ダム玉川上水を訪ねるようになって青梅街道が身近な道になりましたが、いまだに新宿から青梅を経由し甲府に至るぐらいの知識で、実際にどの辺りを通っているのかは細切れにしか知らない道でした。

 

1606年(慶長11年)、江戸開城のために、青梅の成木村で採れる石炭を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。

地図で見ると、東青梅駅のそばを成木街道が通っていて、西北の山あいに成木があるようです。

その道が青梅、そして小説にもなった大菩薩峠を通り甲府へとつながったのですから、まさに道に歴史ありですね。

 

今回、狭山丘陵の山すそを辿っていた時に、なぜこんなに山に近い場所を通っているのだろうと不思議に感じましたが、Wikipediaの「往来」に書かれていました。

青梅街道は道程で甲州街道より二里短く、関所がないため庶民の旅客にも多く利用された。

 

江戸へとつながる道がある狭山丘陵の山すその風景はどんな感じでしょうか。

 

*横田トンネルまで歩く*

 

航空写真で確認すると、狭山丘陵は昔、海だった関東平野に浮かぶ少し大きな島の風情で、緑色の大きな場所が残っています。

狭山丘陵の開発と保全の近代史を読むと、1951年(昭和26年)という早い時期からこの辺りを守る動きがあったようです。

 

山すそぎりぎりまで新しい家が目立つ場所もありますが、畑があちこちに残り、山からの小さな水の流れがあり、蔵のある大きな農家が残っていたり、静かな寺社の敷地を中心に町があるようです。

半世紀前の子どもの頃の記憶を呼び覚まされるような静かな落ち着いた街の雰囲気を懐かしく感じながら歩いていると、先日の野山北公園自転車道に出ました。

 

その先を見ると、「横田トンネル」と書かれた小さなトンネルがまっすぐ続いています。

確かに歩くのはちょっとためらいました。

 

そこから少し山へと歩いたところにある、武蔵村山市立歴史民族資料館へと向かいました。

裏手の道は暗渠を利用した道で、「空掘川」とあります。

ああ、この流れが山口貯水池から流れ出る柳瀬川清瀬のあたりで合流する川だ、とつながりました。

 

狭山丘陵を挟むように小さな水の流れが何本もあり、下流でつながって荒川に合流しているようです。

ほんと、水の流れにも歴史ありですね。

 

今度はこの狭山丘陵の山すそをぐるりと一周歩いてみたい。

新たな計画ができました。

 

 

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