下水道についてのあれこれ 10 「近現代の下水道を築いてきた人たち」

中島鋭治氏について検索していたら、「近現代の下水道を築いてきた人たち」(日本下水文化研究会下水文化出前学校)を見つけました。

あの屎尿処理の歴史で、「世の中、本当に地道に調べ考える人たちで支えられている」と印象に残った研究会のサイトです。

でも、なぜ中島鋭治氏が「下水道」なのでしょう。

 

 

はじめに

 

 明治維新によって成立した新政府は「富国強兵」「殖産産業」を旗印に国家の近代化を推し進めた。この政策の下で、外国との人やものの往来は活発化し、急速に産業や年が発展しはじめた。しかし、その一方で、負の要素も顕在化し始めた。その典型は都市における衛生面の悪化であった。特にコレラの蔓延や都市内の浸水が頻発し、国も放って置けない社会問題になった。

  当時コレラの問題に心を痛め、真剣に取り組んだ人々がいた。ここではその中から代表的な5人を紹介してみたい。

 

「我が国公衆衛生の基礎を築く 長与 専斉(天保9年ー明治35年)」「教育・実務両面にわたる貢献 W・K・バルトン(1855-1899)」「下水道財政の基礎を築く 関 一(明治6年昭和10年)」「下水道事業を軌道に乗せる 久保 赳(大正9年ー平成11年)」の4人と、中島鋭治氏について書かれていました。

 

 

4     衛生工学人脈の頂点  中島 鋭治(安政5年ー大正14年) 

 

 仙台市出身。明治16年東大理学部土木工学科を首席で卒業し、直ちに理学部助教授を申し付けられる。

 中島は多くの人材を学会、官界に送り出している。学系では、草間偉(東大)、大井清(京大)、西田精(九大)、倉塚義夫(北大)等、官界には茂庭忠次郎、米元晋一等錚々たる人を送り出した。これらの人々がまたそれぞれの元で優秀な人材を育て、我が国上下水道界に貢献した人々は何らかの関係で中島に辿り着くといっても過言ではないだろう。

 中島は2回にわたり海外留学・出張を行い、衛生工学に関する豊富な知見を得た。東京帝国大学で教鞭をとる一方、東京市技師長も兼ね、明治37年に「東京下水調査」を一任された。明治30年代になると東京の市街地はかなり進行し、市内の浸水が問題となり始めていた。中島は茂庭忠次郎とともに基本調査を行い、バルトンの計画を見直し、排除方法を合流式とした。

 明治44〜大正元年にかけ、中島の教え子であり東京市技師となった米元晋一が欧米視察を行い、当時の先端技術を持ち帰った。中島は米元の進言を入れ、それまで実験式だった雨水算定式を合理式に変更し、我が国最初の下水処理場となる「三河島汚水処分場」の処理方式に散水ろ床法を採用した。そしてこれが現在の東京下水道の基本計画となっている。

 中島は自分の当初計画に執着することなく、より優れたものを率直に取り入れる雅量を持った人物であった。中島の死後、その恩顧を受けた多くの人々により、『中島工学博士記念 日本水道史』が刊行され、これは日本の上下水道の歴史を語る貴重な資料となっている。

 

「東京下水調査」

この歴史につながる場所と、これからの散歩できっと出会うだろうと思うと楽しみですね。

 

 

 

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