水の神様を訪ねる 30 ポリオ研究所と氷川神社

二つある貯水池のうち山口貯水池から始まるのが柳瀬川で、1月にその上流を歩きました。

 

もうひとつの村山貯水池からも堤体から水路があるのですが、どんなに地図を拡大してみてもその名称がわかりませんでした。

柳瀬川はもともと流れていたから名前がそのまま使われ、村山貯水池からの水路は人工的に造られたので名称がないのかなとかあれこれ想像してみましたが、「百聞は一見にしかず」ですから、歩いてみることにしました。

 

 

武蔵大和駅から柳瀬川との合流部まで*

 

前回は西武遊園地駅を利用したので、今回はひとつ手前の武蔵大和駅で降りて見ることにしました。

駅を降りてすぐの交差点を左へと曲がると、急な上り坂でした。その一番高いところに回田小学校があり、そこからは下り坂です。その坂の一番低いところに、村山貯水池からの水路がありました。そしてそこからまた西武遊園地駅へと上り坂になっています。

電車に乗っている時には気づかなかったのですが、結構な高低差がある複雑な地形ですが、住宅がたくさん建てられていました。

回田小学校に「開校60年」とありましたから、私が生まれた頃からこの辺りが開発されてきたのでしょうか。

 

 

水路の名称を探したのですが見つかりません。

ぎりぎりに住宅が建っているので、遊歩道がある場所は限られていて、少し離れた道路を歩きながら水路が流れる方向を目指して歩きました。左手には狭山丘陵の雑木林が続いています。

しばらく歩くと、小さな水路は川の様相になってきましたが、まだ名前はわかりません。

そのうちに、狭山丘陵のぎりぎりのところを走る西武西武線の線路が見えてきて、列車が通過する音が聞こえてきました。

東村山市立北山小学校の校庭をすぎると、水田と菖蒲園がありました。

北山公園の敷地内のようです。

 

その案内板には、この水路が「北川」と記されていました。

残念ながら、ここから北川沿いに歩く道は途絶えて、一旦、南側の道路へと迂回して西武線の踏切を渡り、ふたたび北川の下流を目指しました。

周囲には広い畑が残り、狭山丘陵の雑木林と、のどかな風景です。

 

ここからは遊歩道が整備されていました。10分ほど歩くと「後川」との合流部があり、さらに200mほどで柳瀬川との合流部になるのですが、残念ながらまたここでぷっつりと遊歩道が途切れました。

歩道が狭く、車が歩道ぎりぎりにスピードを落とさないで走っているので、柳瀬川との合流部を見るという気持ちが削がれ、次の目的地の氷川神社を目指すことにしました。

 

*ポリオ研究所から氷川神社へ*

 

西武線の高架橋の下をくぐると、そこにはさらに気持ちが削がれる場所がありました。

信号のない三叉路で、三方から車がひっきりなしに走ってきますし、どこをみても横断歩道がありません。

すきを見て、歩行者があちこちで渡っています。

きっと、半世紀ほど前に住宅地として開発された場所というのは、車社会の始まりの時代に狭い車道を造るだけで精一杯だったのかもしれませんね。

 

駅もバス停も離れているので、歩くのをやめるわけにはいかず、車がいなくなった一瞬をついて渡った時には、疲労感がどっと出たのでした。

 

ふと、そばにあった建物の看板をみると、「阪大微生物病研究会 ポリオ研究所 株式会社BIKEN 東京事務所」とありました。

以前地図で見つけたことがあったのですが、ここだったのですね。

最近ポリオワクチンの歴史をしばしば思い出していたので、この偶然になんだか元気が出ました。

 

そこからは柳瀬川の河岸段丘で上り坂になりますが、先ほどまでの車の喧騒とは別世界のような畑や古い大きな農家が残った場所があり、目指す氷川神社がありました。

この神社は、氷川神社(ひかわじんじゃ)といい、弘仁九年頃秋津村真言宗竜泉寺に氷川社があり、村の鎮守として崇敬された。

 明治六年十二月村社ニセラル。

現在の社殿は昭和五十九年九月再建されたもので、坪数二十一余、鉄筋コンクリート造銅板葺本殿流れ造、弊殿屋根銅板葺、拝殿入母屋造り、屋根銅板葺であります。

 

818年(弘仁9年)、1873年明治6年)、1984年(昭和59年)そして2021年の今日まで、この辺りは柳瀬川の変化とともに、どのように変わってきたのでしょうか。

そしてポリオ研究所ができたのは何年頃でどのような経緯があり、このあたりはどのような場所だったのでしょうか。

 

 

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