記録のあれこれ 93 「米原潜ワドル元艦長の公開書簡」

2月9日、うわじま水産高校の実習船の事故が起きた日から20年になることを、ニュースが伝えていました。

 

その中で「衝突の責任は私だけにある」という、元艦長の言葉が紹介されていました。

「責任は私だけにある」というのはなんだか日本的な感覚で、リスクマネージメントからするともう少し違う表現だったのではないかと気になり、メモをしたままになっていました。

 

検索したら愛媛新聞に、「えひめ丸事故米原潜ワドル元艦長の公開書簡」(2021年2月10日)という記事で、日本語訳と英語原文が掲載されていました。

 

 米ハワイ沖で愛媛県宇和島水産高の実習船えひめ丸米原子力潜水艦グリーンビルが衝突し、生徒ら9人が犠牲になった事故から20年になるのを前に、元艦長スコット・ワドル氏(61)が遺族らへの公開書簡を発表した。日本語訳と英語原文を掲載する。(ご遺族のプライバシーに配慮し、原文を一部削除、変更しています。 

 

【日本語訳】

2021年2月9日に寄せて

えひめ丸事故犠牲者の皆さま方への公開書簡

 

 ご遺族の皆さまへ

宇和島水産高校実習生 水口峻志さん

同 寺田祐介さん

同 坂嶋富士山さん

同 野本勝也さん

指導教官 中田淳さん

同 牧沢弘さん

えひめ丸通信長 瀬川弘孝さん

機関長 古谷利通さん

一等機関士 西田博さん

そして、えひめ丸船長 大西尚生さん

宇和島水産高の生徒と教職員の皆さまへ

米海軍司令官(退役)

米海軍潜水艦グリーンビル元艦長

スコット・ワドル

 

関係者の皆さまへ

 

米海軍潜水艦グリーンビルと県立宇和島水産高実習船えひめ丸の衝突事故から本日で20年となります。

 

2001年2月9日、現地時間午後1時43分ごろ、潜水艦は私が命じた緊急浮上訓練を実施しえひめ丸船底部に衝突。えひめ丸は約10分後に沈没しました。この事故の結果、9人の命が奪われ、生徒と乗組員計9人が負傷しました。

えひめ丸は約2千フィート(約600メートル)の深海に垂直に沈んでしまいました。この事故でえひめ丸の生徒4人、教官2人、そして乗組員3人が犠牲となりました。亡くなった9人のうち8人のご遺体は数ヶ月後に発見回収されました。しかし、1人のご遺体は、いまだ海に残されたままです。

 

◆◆◆

 

本日こうして手紙を書く第一の目的は、何よりもまず最愛の家族を失ったご遺族の皆さま、えひめ丸に乗船して負傷された皆さま、大西船長と乗組員の皆さま、同級生を失った皆さまにおわびをするためです。

 

第二にグリーンビル元艦長として、この事故の全ての責任は私個人にあったことを明確にしておきたかったのです。衝突は回避可能であり、艦長として事故を防げなかったのは私が義務を怠ったからです。

 

◆◆◆

 

また、ここで明確にしておきたいのは、この書簡は読者から私への共感や同情を求める意図を持って書くのではないということです。私にではなく、この事故で亡くなった方々の家族や生還者の方々へ、そのお気持ちを寄せていただきたいと思います。

 

◆◆◆

 

私は米国人ですが、1959年5月20日青森県三沢市の米軍三沢基地で生まれました。日本で生まれたことは私の誇りです。私が生を受けた朝、私の肺には出生地の空気で満たされたのです。私は三沢市の自宅の隣人だった日本人家族の友人タマさんに面倒を見てもらいました。私が発した最初の言葉は日本語でした。27歳の時に富士山に登り、私が生を受けた国の素晴らしさに心から感動しました。9人が亡くなった日に、彼らと共に私の一部も死んでしまいました。私は事故で亡くなった方々やその家族を裏切ったと感じたのです。

 

私は事故以来、羞恥心、悲しみ、苦しみ、自責の念を抱えてきました。この思いは私が死ぬまで続くでしょう。

 

◆◆◆

 

私と私の乗組員は、事故直後、えひめ丸の燃料室から流れ出たディーゼル油が漂う海面と荒れた波が潜水艦デッキに押し寄せる状況で、生存者の救助活動をすることができませんでした。潜水艦の艦橋から、生存者の安全そして潜水艦乗組員の安全を危険にさらさないために決めたことでした。

 

1時間後に米沿岸警備隊が生存者を救助しました。そこで9人の姿が見えないことを知りました。この報告を聞き、それまでに経験したことのない衝撃に襲われました。

 

翌10日(土)午前、私の潜水艦が真珠湾の海軍潜水艦基地に戻った時、私は、妻と13歳の娘から、17歳の生徒4人と指導教官2人、そして乗組員3人が亡くなったことを聞かされ、事態の重大性に衝撃を受けました。同日午後、任務を解かれ、家族の待つ自宅へ戻りました。どうして良いのか分からない状態でした。犠牲となった9人のご家族の心の傷と深い悲しみをニュースを通してしるばかりでした。

 

同日午後、私は艦長の任を解かれました。私はグリーンビルに戻り、乗組員に最後の話をしました。この痛ましい事故の原因究明をすることがご遺族に報いることになると話しました。そして、調査が始まった際には真実を述べ質問には可能な限りの力を尽くして答えるよう伝えました。真実のみを話すこと、また、明確に応答できない場合には「分からない」と話すよう伝えました。

 

◆◆◆

 

ご遺族の皆さまが11日(日)にホノルル市に到着しました。私は、太平洋潜水艦司令官室広報担当官に電話をかけ、私が謝罪のためご遺族に面会する機会を与えてもらえるかどうかを尋ねました。1時間後、私の申し出は断られた旨の連絡があり、また、ご遺族から私への面会は最後に許されることになることを伝えられました。

 

私はもっと熱心にご遺族の皆さまに会えるよう務めておけばよかったと後悔してています。他人に危害や損害を与えた時には、速やかな謝罪が重要であることは十分に理解していました。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。あの時、もっと強く謝罪の機会を求めるべきでした。

 

◆◆◆

 

私の最初の謝罪は海軍と民間弁護士によって作成され、プレスリリースを通して発表されました。「謝罪」の代わりに「遺憾の意」が使われていることに疑問を感じましたが、これが最もふさわしい言葉だと言われ、そのままにしました。しかし心の内では、それは間違いだと気付いていました。ここで再び「私は謝罪します。申し訳ありませんでした」と言えなかった過ちを犯してしまいました。この行動が、遺族の方々のさらなる怒りと心痛になったのだと思います。

 

◆◆◆

 

事故直後数週間に及ぶ捜索救助活動にもかかわらず、行方不明者の所在は突き止められず、家族は日本に帰国し査問委員会を待つこととなりました。

 

私は(ホノルルの)日本領事館に連絡を取り、総領事への面会予約をとりました。海軍の制服ではなくスーツを着用し、一民間人スコット・ワドルとして面会することとしました。私は総領事館のスタッフに出迎えられました。総領事とお茶を頂きながら、日本で過ごした少年時代の話などをしました。その後、椅子から立ち上がり、総領事の前に立って深く頭を下げ、手紙(9人のご遺族おのおのにろうで封をし、リボンを掛けて)を手渡しました。そして、私が起こした事故を謝罪しました。

 

私は総領事に、事故は恥ずべきことであり米国、米海軍、米潜水艦部隊、テネシー州グリーンビル市、私の(潜水艦の)乗組員、そして私自身の名を汚す、おのであることを話しました。

 

私が総領事館を出るとき、総領事と職員は私の敬礼にたいし、敬意と尊敬を持ってお辞儀をしてくださいました。その日の夕方、私の手紙は日航機で日本へと飛び立ちました。

 

◆◆◆

 

ご家族の第1陣が、3月第1週に査問委を傍聴するため、ホノルル市に来られました。3月7日午前、査問委3日目に法廷に入り、私と裁判所スタッフを分ける手すりの向こうに着席されたご家族の皆さまを見ました。私はご家族のお一人に、私はご家族の皆さまがきていることをわかっていますよと会釈をしました。言葉で伝えられなかったのが残念です。

 

ある人が、これを見てすぐに私に近づき、私が大きな間違いをしたことを注意しました。ご家族の皆さんと話す前にまず謝罪をする必要があると言いました。私は、ご家族の皆さんと会える機会を設け、正しい方法で謝罪する機会を与えてほしいとお願いしました。

同日9日(金)午後、私は初めてご家族に会うことができました。みなさんの前でお辞儀をし、通訳を介して謝罪をいたしました。ご家族の話に耳を傾け、質問に答えました。刑事免責(訴追免除)なく証言することをお約束しました。ご家族の皆さんに真実を伝える義務があり、それが正しいことだと考えたからです。

 

同14日、査問委に出席するご家族第2陣に面会する機会を得ました。私は謝罪し、ご家族の話に耳を傾け、質問に答えました。ご家族は私に証言台に立つよう言われました。私は証言することを断言し、その通り実行しました。

 

 

◆◆◆

 

査問委は、悲劇的な死を招いた間違いや過失を突き止めることになりました。私の乗組員は法廷で証言に立ち、証言しました。真実を述べた彼らを誇りに思いました。

 

名誉であり正しいことは、証言台に立ち、私が乗組員にしてほしいと願ったことを実行できたことです。約束通り、家族の皆さんとの約束を果たすことができました。

 

◆◆◆

 

査問委は、徹底して事故の誤りと過失を突き止めました。

 

多方面からの検証の結果、事故は私の過失であることが判明しました。他の誰でもない私に、事故の責任と説明責任があるのです。

 

米海軍は、査問委報告書と証言の徹底的な検証調査を実行しました。事故発生から20年の間、海軍、海軍規律、潜水艦訓練校、潜水艦乗組員訓練のあらゆる場面、米軍アカデミーなど多くの現場で、えひめ丸事故から得た教訓が生かされています。

 

米海軍の潜水艦乗組員、潜水艦の安全運行任務に就く者(海軍士官や入隊者)は、衝突と座礁に関するセミナーでえひめ丸事故の詳細を年に1度再確認し、3ヶ月ごとに細かな出来事について再確認しています。

 

この20年間、私はこの事故や私の失敗・欠点について、世界中のビジネス界の方々や聴衆と共に有してきました。

 

みなさんが職場や家庭でリスクを軽減するにはどうしたらよいかを、自分の時間とエネルギーをかけて理解してもらうよう務めてきました。私の生徒や聴衆は、同僚の守り方や、従業員・ビジネス・コミュニティーを守るための賢い判断の仕方を学びました。

 

米国や米国外の顧客と一緒に働いてきました。その多くは米経済紙フォーチュン上位千社のメンバー、教育者、法執行の専門家、災害や事故の際に最初に対応する人々、医療専門家、産業リーダー、数えきれない米軍関係機関(陸軍現役および予備兵部隊)、米空軍アカデミー、商船アカデミー、海軍予備兵訓練部隊です。

 

聴衆は少ない時で3人、多い時には2万1千人(03年のハワイフェイスホープ教会)でした。

 

決して個人的利益でなく、二度と同じような事故が起きないことを願って、事故のことを多くの人に知ってもらいたいたいめに力を尽くしてきました。

 

聞いてくれる人たちへのメッセージは明快です。間違いや失敗は起きる。そのときには正しいことをすること。自分が危害を与え傷つけてしまった人たちに、自分自身の行動を説明する責任があることを自覚し、真実を述べること。誠実な人であれ、自身の行いについて説明でき、責任を取る人であれということです。

 

◆◆◆

 

(行方不明者の)魂が、ハワイの海上および海中航行の乗員を守り、安らかに眠らんことを願っています。

 

心からの敬意を込めて

 

米海軍司官(退役)

スコット・ワドル

 

 

 

「責任は私だけにある」と聞いたときには、感情的なことに配慮した一言なのかと思ったのですが、事故発生時の対応、事故の検証、再発防止の視点を踏まえた、責任者としての言葉だったようです。

 

 

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