10年ひとむかし 79 矢作ダムと堆砂

私が小学生の頃に、矢作ダムが建設されたようです。今考えれば、水害が激減した時代と重なり合います。

当時、どこに大きなダムができたかということがおそらく華々しくニュースになっていたのだろうと思いますが、小学生の私には記憶に残っていませんでした。

 

ダムが気になり始めたのは、1990年代初めに滞在していた地域でダム建設問題があったことがきっかけでした。

世界中でダム建設への批判が高まっていた時代の雰囲気もありました。

当時、アメリカではダムを壊して「自然な川」へ戻すことも始まっていました。

「ダムは不要」「ダムをなくす」、白か黒かしか方法が思いつかないような雰囲気でした。

 

2000年代に入って、また少し風向きが変わりました。

インターネットでは「ダムが好き」という人たちがいて、訪ねたダムや周辺の風景を伝えたり、ダムの専門知識を持った方々の考えを知る機会もできました。

 

自然環境に与える影響と、人が住む環境に与える影響、ダムが必要かどうかにはもっともっと複雑な議論の過程と判断があることを知ることができました。

 

ただ、気になっていたのは、あの大きなダムに溜まった堆砂はどうするのだろうか、ダムを壊すしかないのだろうかということでした。

 

*奥矢作湖と堆砂*

 

Wikipedia矢作ダムを読んでいたら、こんな方法が考えられ始めていたのかと、また時代の変化を感じました。

ところがこの奥矢作湖は近年、急激な堆砂が進行している。堆砂とはダム湖に上流から流入した土砂が堆積することであり、ダムの宿命でもある。だが奥矢作湖の場合2000年(平成12年)9月に東海地方を襲った未曾有(みぞう)の集中豪雨・東海豪雨岐阜県では惠南豪雨とも)によって矢作川上流部の上村川流域で土砂崩れが多発。この土砂が一挙に湖に流れ込み当初の計画より65年も早く堆砂が進行した。治水を目的とする多目的ダムの場合、堆砂の進行は洪水調節機能に重大な影響を及ぼすため、ダムを管理する国土交通省中部地方整備局は「矢作ダム直轄堰堤(えんてい)改良事業」として奥矢作湖の堆砂除去を開始した。現在湖では浚渫(しゅんせつ)が実施されておりダムに溜まった土砂を取り除く作業が進められているが、浚渫した土砂をどう処理するかが問題になった。これに対し下流受益地の豊田市は建設が予定されている市営運動公園の造成用にこの土砂を使用する方針を固め、一色町(現西尾市)では愛知県と協力し、土砂を利用して三河湾に人工干潟を造る計画を立てている。また豊田市は上流の土砂流出対策と水源保護を目的に、水道水源保全基金を財源として「水源の森」をダム上流に造成する計画を市議会で検討しており、林業衰退による深林の荒廃を阻止して水源林の保護と堆砂対策を進めようとしている。

 

 

「土砂を利用して三河湾に人工干潟を造る計画」、利点と欠点、いろいろ専門的な見方はあるとは思いますが、30年前のダムを壊すしかないという時代にはこんなことは思いつかなかったと感慨深く読みました。

 

 

*リスクと失敗との闘い*

 

14世紀から川を付け替え、水を利用し、水を制してきた歴史を読むと、1594年に行った「中流域西部・南部の可道一本化では遊水池(妙覚池)などが消失したことで、水害が激増しました」と書かれています。

 

このうまくいかなかったことが記録されてきたことにも驚きますが、人と水との闘いを長い目でみると、こうしてうまくいかなかったことを次へと活かしてきた歴史として、この堆砂の新たな処理方法を捉えたらよいのかもしれませんね。

 

30年前はまだこうした官公庁の資料をすぐに読める時代ではなかったにしても、治水と利水とそして環境問題のリスク比較を思いつくこともなく、私はただ何かを批判していただけだったのだと思い返しています。

それが何に対してだったのか、自分でもまだ整理できていないのですけれど。

 

 

 

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