散歩をする 288 ただひたすら川と海を見に〜愛知用水と知多半島〜

2月下旬に矢作川明治用水を見てまわったあと、2週間後の3月中旬には愛知用水を見に出かけました。

 

愛知県は一足先に2月下旬に緊急事態宣言が解除されましたが、東京は3月21日まで再度延期になりました。宣言解除まで待つと春休みで一気に人出が増えそうですし、今年は春の訪れが早く、飲酒や食事で盛り上がり始めていた雰囲気でしたから、出かけるのなら3月中旬だと色々と今までの社会の反応を考えながら決めました。

 

地図を見ながら計画を立てるのは、本当に楽しい時間です。

まっすぐの水色の線を見つけて、たどってみると「愛知用水」と正解を見つけるときの楽しさや、ふと目についた場所を検索すると愛知用水に関連した場所で「み〜つけた!」という感じです。

全部の地域を歩き回る勢いで、次から次へと計画が出てきました。

でも、幹線水路だけでも全長112kmもありますからね。

列車やバスの時刻表をつき合わせながら、計画ができました。

 

今回は三河安城駅からスタートして、前回のやり残した宿題の駅のそばを通っている明治用水を歩くことにしました。

明治用水中井筋で、西側へと伸びるその水路の南側には水田地帯が広がっているようです。

 

そのあとはいよいよ愛知用水に関連した場所へと向かいます。

明治用水が碧海台地を潤したのに対して、愛知用水はどこへと向かうのか、地図を見ているだけでは途切れ途切れにしか用水が描かれていないので、最初はなかなかわかりませんでした。

Wikipediaの「歴史の概要」を読むと、温暖で風光明媚な観光地だとイメージしていた知多半島の全く知らない歴史が書かれていました。

大きな河川が無く水不足であった知多半島地域への用水運動が愛知用水誕生の端緒である。水不足を溜池で何とかやりくりしていた知多地域は、1947年に大旱魃を受けて溜池が壊滅し大きな被害を受けた。これにより用水設置を求める運動が起こった。このうち、木曽川からの引水を計画したのが篤農家の久野庄太郎と安城農林高校教諭の浜島辰雄である。翌年には地元有志による「愛知用水期成会」が結成された。また久野・浜島は首相吉田茂へ陳情し、国の政策として用水路建設が進められることになった。

 

1950年に「敗戦国復興開発融資」を受けて計画が始まり、1961年9月に完成したとあります。

私が生まれた頃で、その十数年まえにはまだまだ「大干ばつ」という言葉があったのですね。

そして戦後賠償で造られた八郎潟もあれば、敗戦国復興開発融資というのもあったのですね。私が物心ついた頃には開発が進んでいたのは、こうした歴史があったことをほとんど知らないままできてしまいました。

本当に自分が生まれた頃や、それより30年、40年前あたりの歴史を知ることは難しく、半世紀ほど生きてようやく繋がってくるものかもしれませんね。

最近の高校生のみなさんは、このあたりはすでに「歴史」となって学んでいるのでしょうか。

 

明治用水と異なり、愛知用水は地図ではなかなかわかりにくいのですが、開渠の用水路ではなく、途中、トンネルで導水されている箇所が多いのかもしれないと感じていましたが、この敗戦国復興開発融資による当時の最新技術が使われていることが理由だったのでしょうか。

 

知多半島で気になる溜池をずっと眺めているうちに、「佐布里池」が目に入りました。池のそばに「水の生活館」があります。愛知用水の資料館に違いないと思い検索したら正解でした。

ここからパズルがどんどんととけるように、愛知用水の流れが見えてきました。

溜池と溜池の間に、トンネルの導水路があるようです。

溜池が造られている場所ですから、直線距離は近くても高低差が大きくとても徒歩でいくつか歩くことは不可能そうです。

コミュニティバスの時刻を確認し、可能な範囲で愛知用水のそばを見て歩くことにしました。

 

知多半島はいつか訪ねてみたいと以前から穴のあくように地図を眺めていましたから、すぐに計画がつながりました。

半島には、名鉄常滑線名鉄知多線、名鉄河和線が三方向に通っています。先端の師崎に行って見たいと、以前、バス路線を調べたことがあります。うまく乗り継ぐと知多半島の先端部分をバスの車窓から見ることができます。

 

一泊二日の計画がすぐにできました。

天気予報では雨模様でしたが、干ばつに苦しんだ地域では恵の雨です。

愛知用水によって、どんな風景が広がっているのだろう。

 

なんだか3度目の緊急事態宣言の雰囲気になってきたこんな時期ですが、またしばらく散歩の記録が続きます。

 

 

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