記録のあれこれ 97 明治用水記念館の資料より

2月と3月にそれぞれ訪ねた明治用水愛知用水の散歩の記録をブログに書きながら、明治用水記念館でもらってきた資料を読み直しているうちに、ブログにそのまま写し書きしておこうと思いつきました。

 

明治用水の計画者  都築弥厚(つづき やこう)*

 都築弥厚は1756(明和2)年、碧海郡泉村(現安城市和泉町)に生まれた。生家は豪農で、酒造業や新田経営で成功してかなりの財を蓄えており、その富裕の中で育てられた。弥厚は幼い頃から向学心が人一倍強く、常に努力を怠らない人であった。交際範囲も広く、学者や文人など多くの人とも接し、不可思議な魅力を持っていたと言われている。また弥厚は47歳で松平作左衛門知行所を支配する根崎陣屋の代官に就任し、68歳まで長く地方行政に携わっている。これは土地の豪農というだけでなく、人間的にも人々から信頼されていたためだと思われる。

 弥厚が用水の開削計画を計画したのは、弥厚の本業である酒造業や新田経営が順調に進んでいる1810(文化7)年ごろだと伝えられている。計画を実現するには、まず現地測量することから始めなければならない。そこで、隣村である高棚村(現安城市高棚町)の和算家石川喜平に協力を求めたところ、彼は快諾し、門弟石川浅左衛門と共に5年の歳月をかけて測量図を完成させた。

 1827(文政10)年10月、用水路の設計を完成した弥厚は、幕府勘定奉行に対し、長男弥四郎名義で「三河国碧海郡新開一件願書」を提出した。計画の内容は、矢作川上西川より越戸村(現豊田市越戸町)付近で取入口を設け、延長約8里(約30km)の水路を掘って、4,240町歩の新田開発をするというものであった。新田開発の費用は新開仲間と都築一族が工面することにし、用水路開削の費用は幕府い拝借を願い出ていた。

 願書は幕府に取り上げられ、役人が1829(文政12)年と1831(天保2)年に実地検分に来ている。役人は水路開削予定地と新田開発予定地の村々を調査し、反対者の説得にも務めた。

 幕府役人の検分後、1833(天保4)年、新田開発の一部許可が出された。しかしそれは、最初の計画の20分の1にも満たない約205町歩に対してのみであった。計画の中心である水路計画の許可は下りず、単なる新田開発になった。弥厚は計画実現への熱意を失わなかったが、一部許可が出されてから半年後の1833(天保4)年9月10日に病没し、その偉大な着想は成就しなかった。

 その後、明治時代に入ってから弥厚の大志を「明治用水」として、岡本兵松と伊豫田与八郎が完成させた。

 

 

*測量の名人 石川喜平(いしかわ きへい)*

 石川喜平は、1788(天明8)年刈谷藩の領地である碧海郡高棚村(現安城市高棚町)に生まれ、生家は高棚村の地主で経済的にはかなりゆとりのある家庭であった。

 20才で碧海郡合歓木 (ねぶのき)村(現岡崎市合歓木町)の人で「和算家 清水幸三郎林直(りんちょく)」の門に入り、5年近く修行の後、1812(文化9)年2月に市販から免許証を授かる。その後、喜平は師範として理論的な和算を極める一方、実用和算にも大きく目を向けていたのである。したがって喜平の門に入る弟子たちは、いろいろな階級の者がいた。和算と言っても数学的なものを中心にして測量、天文、暦などの面まで含めたものであり、特に喜平は測量、天文、暦には意欲的だった。それに、高度の知識と技術を持っていたことも、残っている資料から推察できる。また、その資料から秀れた教育者であった。教える階層も、内容の程度も、非常に幅広いものであったようで、普通の寺子屋とはことなり、庶民に生きる実用和算を教えていた。

 喜平が師範になった1812(文化9)年、和泉村の都築弥厚は根崎陣屋の代官に就き大きな夢を計画していた。弥厚の新開計画も用水路の開削を伴うものであったため、喜平の頭脳が頼りになり、科学的、技術的裏付けを求めた。弥厚と喜平の二人は、この計画の困難さを十分に予測していた。積極的な弥厚は難事業ではあるが、可能性十分な計画であるとの自信を持っていたことから、弥厚の説得に喜平の心は動き、測量を承諾する。この時、弥厚は58才、喜平は35市で働きざかりになっていた。

 1822(文化5)年弥厚と喜平は測量を開始し、5年近くを費やして測量は完成した。百九十年の昔、幼稚な測量器具で完成した用水路測量図が現在も高く評価されるのは、喜平の測量知識と技術がかなり高度なものであったかを示している。

 晩年は生きるために農業をし、教える楽しさと、学問する喜びを味わうことが、喜平の生きる道であったと思われる。そして多くの弟子たちは、喜平の学者として教育者としての姿に感動し、その学問の深さに畏敬の念を持って、建立された墓碑は、今も立派に建っている。1826*(文久2)年75歳で没し、高棚村の土になった。

 

(*原文のまま、おそらく1862年

 

明治用水の開削者 岡本兵松(おかもと ひょうまつ)*

 岡本兵松は、1821(文政4)年大浜村字鶴ケ崎(現在の碧南市新川町)に生まれた。28才で結婚し、父の家業を継いで、味噌、醤油の醸造を行い、回船問屋を経営していた。稼業が順調なとき、都築弥厚の子孫である都築増太郎より石井新田(現在の安城市石井町)の開墾許可の土地20 haほどを買い入れて、家業の傍ら開墾を行った。しかし、開墾は予想以上に困難で、水田になったのはわずか2.6ha余りであった。その後、幕末の物価の変動と事業の失敗により破産した。そのため、兵松夫妻は明治維新後に石井新田へ移住して庄屋となり、用水路開削を生涯の一大決心とした。

 明治時代に入り、目まぐるしく変わる行政機関の変動に負けず、幾度も弥厚の計画に基づく用水開削を県に出願した。やがて、1872(明治5)年、県の統合によりこの地域が愛知県となり、ようやく計画願いが取り上げられた。しかし、県は伊豫田与八郎の悪水計画との合併を強く迫り、二人の承諾を得て測量に入った。この測量の結果、伊豫田与八郎の計画が無理であるとわかり、兵松の用水計画案に協力することになる。兵松と与八郎は共に農民の説得と資金調達に奔走する。

 1876(明治9)年9月、長年待ち望んだ開削の許可がおりた。その後、資金の目処もついて、1879(明治12)年1月、いよいよ本流の開削工事が始められた。翌年3月には大浜茶屋村(上倉池)(現在の安城市浜屋町)まで開削が完成し、続いて大勢の人夫を動員して東井筋と中井筋が開削され、1881(明治14)ねんには西井筋の開削工事が完了していた。全長52kmとなり、この時代を代表する用水として「明治用水」と命名された。

 用水完成後の兵松の生活は、決して恵まれたものではなかった。長年の苦労から病気にかかり、用水完成までに多くの資金を使ったため、経済的にも苦しい生活が続いた。兵松は私塾を開き、夫人は駄菓子屋を営んで生計を立てていたことが伝えられている。

 また、兵松は俳句をつくり、号を大林居という。俳句のひとつに「逝(ゆ)く川に 青田の風や 村つづき」を残し、黄金色に実った稲穂を見ながら77歳の生涯を終えた。

 

 

明治用水の開削者 伊豫田与八郎(いよだ よはちろう)*

 伊豫田与八郎は、1822(文政5)年、碧海郡阿弥陀堂村(現在の豊田市畝部西町)に生まれ、幼い時に同じ村の伊豫田家の養子になった。

伊豫田家は豪農で彼が家督を相続したときは、岡崎藩が支配していた領地で、東海道以北、矢作川以西の33か村1万1千石を采配する大庄屋であった。

 もともと、阿弥陀堂村をはじめ矢作川に隣接する村々は低地であって、一度雨が降ると水害となり村人達は苦しんでいた。村人の一人伊豫田善兵衛からこの低地の水を安城刈谷、高浜を経て衣浦湾に排水することを与八郎に相談したことが彼の運命を変えた。

 与八郎はこの工事を「自分の命にかけても、きっと成し遂げる」との熱意を持って岡崎藩を動かしたが、他藩の反対に遭い調整できなかった。

 世は移り、明治時代になっても与八郎の用悪水路開削への熱意は変わらなかった。度重なる行政機関の変動にもめげず、再三出願した。

 1873(明治6)年、愛知県令に提出した「悪水抜御願書」に七か村戸長の総代として与八郎の記名があるが、この頃から計画は与八郎自身のものとなっていった。

 このような時、岡本兵松も都築弥厚の計画を実現しようと出願していた。愛知県はこの両者の計画の合併を強く要求し、二人の承諾を得て測量に入った。この測量の結果、与八郎の計画は地形の高低から考えて無理なことがわかり、兵松の用水計画案に協力することとなる。

 与八郎と兵松は共に農民の説得と資金調達などに奔走し、驚くほど短期間で用水路を完成させた。

 そして用水路ができあがったとき、与八郎には多額の借金ができていた。長年の奔走に出費がかさんだのに対して事業完成によって得たものは少なく、加えて、1881(明治14)年、政府のデフレ政策により破産した。

 しかし、与八郎の功績が忘れ去られたのではなかった。1883(明治16)年には藍綬褒章を受け、1889(明治14)年には明治用水神社の祠掌(ししょう、神職)に選ばれた。

 晩年は用水の流れを見、多くの農民からの尊敬を集めて余生を送り、波乱に富んだ74歳の人生の幕を閉じた。

 

*旧頭首工を人造石で作った  服部長七(はっとり ちょうしち)*

 服部長七は、1840(天保11)年、碧海郡棚尾村 (現在の碧南市西山町)に生まれた。父の後を継いで左官業を営んでいたが、廃業し職を転々とした。その後、醸造業や饅頭屋などを経て、1873(明治6)年、34歳のときに、水道水の濁りを除去するためのろ過器を「たたき」で作ることを考案した。このとき、たたきの有効性がきっかけとなり、再び左官業を開業し、「たたき屋」と名乗っていた。

  1876(明治9)年、第1回内国勧業博覧会で、長七に運命的な出会いが待っていた。長七は、この博覧会会場土間のたたき工事を落札していたが、同時に会場入り口の泉水池の工事も請け負っていた。この池の工事計画はずさんなものであり、指定通りの工事を行うと池の噴水が機能しない。指定通りの工事を行うしかなかったが、事前に長七が案じた結果となった。しかし、長七は指定工法での施工は一か所のみで、別の後方で工事を行っていた。その結果、修正か所は1か所だけで済んだ。このときの担当が後の子爵、品川弥次郎であり、長七の能力が認められた。品川は、農商務大輔(たいふ)、内務大臣等を歴任していくが、長七の実力と心意気のよき理解者であり、大きな後ろ盾ともなった。出身地である愛知県以外で事業に参画できた背景には、品川の存在が非常に大きい。

 また「人造石」と呼ばれるようになったのには、次のような逸話がある。1881(明治14)年、東京上野で開催された第2回内国勧業博覧会の準備で、ちょうしちの仕事を見ていた農商務省の雇い外国人技師が、「この人造石は何でできているのか」と問われたことから継いたという。これ以降は、自分のつくった"たたき"工作物を人造石と呼ぶようになったと言われている。

 長七の最初の大規模土木工事は服部新田(現在の高浜市)の築堤工事で、宇品築港工事(広島市)など各地で実績を重ねた。明治用水管内では、旧堰堤や家下(やした)川暗きょ、中井筋末端の高浜発電所などがある。家下川の暗きょは、現在も残り、長七の銘板も読める。また、旧堰堤の設計書や図面は水のかんきょう学習館所蔵庫に所蔵しており、当時の"たたき"の配分がわかる貴重な資料である。

 服部長七の晩年は、1904(明治37)年に一切の事業から手を引き、岡崎市にある岩津天満宮に隠棲し、79歳という波乱に満ちた一生を終えた。

 

明治用水取水口の変遷*

頭首工の移り変わり

 明治用水が開削された1880年、大地の開削田を増やすためには水の確保が最も重要だった。最初の取水口は現在の頭首工より約2,000m上流にあった。川の中に木の枝(粗朶、そだ)を打って小石(礫)を並べて水をせき止め。同様に粗朶と礫で長い堤防を作って現在の取水ゲート地点から用水へ引き入れていた。しかし、洪水で何度も流され多くのお金をかけて直していた。

 組合(土地改良区の前身)では堅牢な堰をつくるため、築港等の工事で多くの実績をもつ人造石の発明者服部長七に新堰堤の工事を依頼し、堰は9年の歳月をかけて1910年に完成した。この堰堤は両岸の岩盤を支えとしたアーチ式で回転構造をもつ樋門を備え、さらに船通し閘門や魚道も整備した。このような近代的な整備を備えた堰堤は、全国でも先駆的なものだった。堰堤の完成により台地の開発も進み、1910年に開催された関西府県連合共進会へ堰堤模型と水利事業成績書を出品し、農商務大臣から一等賞金牌を受賞した。

 現在の頭首工は重力式コンクリート堰堤で、農林水産省の事業として旧堰堤(2代目)から280m下流に1950年から1958年にかけて築造した3代目の堰堤である。1978年から6年の歳月をかけて都市用水と共用するための予備ゲートや下流の護床の補修、1981年からは水源管理所内に設置した遠方監視制御装置で操作している。 

 

 

偉人伝のような物語としてではなく、この資料の行間にある歴史を本当に理解するにはあまりにも知らないこと、わからないことが多すぎると、あの明治用水取水口の風景を思い出しながらちょっと打ちのめされています。

 

 

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