イメージのあれこれ 31 江戸時代のため池

なんだかんだと生きているうちに、昭和生まれの私は「昭和・平成・令和」の3つの元号を生きる世代になってしまいました。

これは私の感覚で言えば、「明治・大正・昭和」の3つの時代を経験している人ですから、祖父母や曾祖父母の世代に相当します。

「自分は若い」と主観年齢がずれすぎないようにしているつもりですが、元号で世代を考えると一気に老け込んだ気分になるので、最近はあまり考えないようにしています。

 

さらに江戸時代となると、遠い遠い世界の話でした。

社会のシステムも文化も違いすぎて、テレビの時代劇の中の世界といった感じですね。

そこから驚異的に時代が変化して、侍は刀をおろし丁髷を切っただけでなく、一般市民の間に電気やガスが使われるようになるのにわずか十数年だったというあたりに気づいたのは最近でした。

 

今までは、江戸時代というのは現代とは比べ物にならないほど未熟な社会だったというイメージでした。

玉川上水利根川東遷事業といった江戸時代の土木技術に驚くことはあったのですが、特殊な大事業だけだと思っていました。

 

また明治・大正・昭和初期も、まだ人海戦術に頼るような写真を目にします。

 

最近は、その江戸時代からの土木技術に対するイメージが、私自身の歴史の理解を妨げていた一因ではないかと思うことが増えてきました。

 

 

*ため池とダムの違い*

 

1990年代にダムを見て歩いた当時は、ダムというのは現代に入ってからの最新の技術によるものだと思い込んでいました。おそらく、 黒部ダムをまず思い浮かべていたのだろうと思い返しています。

 

「ダムというのは近代的なもの」ではなかったことを知ったのが、奈良の荒池を訪ねて、谷池を見たことがきっかけでした。

もしかするとこうした溜池を利用してきた地域では、ダムとの違いはその規模であって、もともと長いこと溜池というダムとともに生活があったのかもしれません。

 

 

*江戸初期に造られた入鹿池

 

愛知用水の調整池のひとつに、岐阜県犬山市入鹿池があります。

「江戸時代初期からあるため池」と書かれていますが、地図でみてもかなり大きい貯水池です。

 

水土里ネット愛知には「水を拓く」もあり、その中に「明治38年ごろの改修工事」の写真が載っているのですが、それを見ると人の背丈の数倍の高さはある土で造られた堰堤が写っていました。

入鹿池は、池の堤防の高さ25.7m、長さ724.1m、貯水量は約1,500万㎥もあり、香川県満濃池などとともに日本で一、二の規模を誇る農業用のため池で、犬山市小牧市大口町扶桑町に渡る約1,000haの水田を潤しています。今から368年前の1633年に、江崎善左衛門ら入鹿6人衆と呼ばれた人々が、徳川家康の9男で尾張藩の殿様だった徳川義直にお願いして、尾張藩の事業としてつくられたものです。

 

入鹿池の歴史を読むと、ため池(ダム)の歴史をあまりに知らなかったことと、私の「江戸時代の未熟な土木技術 」という思い込みが、現代に続く公共事業の歴史への理解を妨げてしまったのですね。

 

何かが驚異的に変化する時代には、その前の時代から続いてきたことを見失いやすく、未開の時代化のようなイメージになりやすいのかもしれません。

 

 

 

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