雷電神社を後にして、JR常磐線を越えてしばらくまっすぐな大きな水路沿いを歩きました。中をのぞきこむと案外と水は綺麗で、水鳥や亀がのんびりと水辺にいました。
周辺の家の雰囲気から、80年代ごろに整備された水路でしょうか。
遊歩道という感じではないのですが、空き地を利用して花が植えられていたり、野菜が植えられていたり、ちょっとのどかです。
少し高いコンクリート張りの水路が続く様子は、いつもならちょっと物足りなく感じるのですが、竹が花雷電湧水と松戸の湧水の歴史を知ったあとはなんだか親しみさえ感じる風景です。
コンクリートの水路の途中で、右岸側から本当の坂川が合流する場所に来ました。
予想よりも坂川の水量は少なく、川は草木に覆われていました。
ここからは今までの水路が「坂川」になるようです。では、上流の水路の名前はなんだったのだろうと探してみたのですが、よくわかりません。
しばらく歩くと、中部小学校のあたりから川沿いの道は細くなり、水路というより川の雰囲気になって来ました。
善照時のあたりでは桜がまだ満開でした。ここで上流からの坂川は南西へと流れを変えて江戸川へと合流し、その先に中洲のような場所があります。そこは竹やぶがあり民家もあって、それまでの風景とは別世界でした。
*坂川の歴史とその流れ*
ここからまた本流は南側へと流れるのだろうと思ったのですが、よくよく見ると、水の流れが逆で、南から流れてここで合流して江戸川へと流れているように見えますし、あきらかに今までの坂川の水とは異なり、澄んだ水が流れ込んでいます。
ここで、坂川の流れがどうなっているのか混乱しました。
たしか地図ではもう少し下流で江戸川にもう一度合流しているので、水の流れは北から南のはずです。
わけがわからないまま、水の流れを追いながら歩きました。
そこから少し「下った」ところで流山街道に出て、坂川は一旦、くの字に屈曲して流れていますが、その交差点に石碑がありました。
松戸宿 坂川の歴史
古くからここには水路があり、街道を横切る橋は水戸石橋と呼ばれていたとつたえられている
のちに、かわの名を坂川、橋の名を春雨橋と言う
松戸宿はこの辺りから下横町渡し船場までが(*続きの文章は写真にうまく撮れていなくて読めず)
街道の東側は田畑が広がっていた
米が豊富な宿場では
餅菓子や煎餅などを売る店も多かったと言われている
江戸時代のいつ頃の様子でしょうか、石碑には、いまよりもはるかに水路があちこちから交差している様子が描かれていました。
*坂川遊歩道を歩く*
この屈曲したところから、遊歩道が整備されていました。
今までとは趣が違い、川のすぐそばに砂利道の歩道が続いていて、水のそばにも行けるようになっています。
途中に「よみがえった坂川」という大きな説明板がありました。
かつての坂川と江戸川
昭和30年代以降、坂川流域では急速に都市化が進み、家庭からの生活排水が直接坂川に流されていました。そのため坂川は洗剤等の泡が浮遊し、悪臭が発生するなど、とても汚れました。また、坂川の汚れた水が江戸川に流入することにより、江戸川から取水していた水道水はカビ臭い水となり、昭和50年代後半から大きな社会問題となりました。
ほんとうに半世紀ぐらい前までは「水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚」で、その後下水処理施設が整備され、川がきれいになり始めました。
東京の水はカビ臭いと言われていた記憶も残っています。それが80年代から90年代に金町浄水場で椰子殻活性炭を投入していた理由のひとつでしたから。
目の前の坂川は、どんな魔法を使ったら蘇ることができたのだろうと思う水が流れています。
訪ねてみて良かったと思いながら遊歩道を歩いていると、小さな「神田川」が坂川に合流し、その先に松戸神社がありました。
境内には「水神」があって、龍の口から水が出ていました。
ところで、坂川はどこからどこへ流れ、水の流れはどうなっているのでしょうか。
今回は時間切れで、もう少しだけ坂川沿いに歩いたあと、大きな疑問が残ったまま家路に向かいました。
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