水の神様を訪ねる 37 小名野ケ谷の鎮守様

今回歩いた深大寺用水東堀の途中で、諏訪神社に立ち寄って見ました。

社殿の壁に、本を切り取ったような紙が3枚、ビニールのカバーに入れられて貼ってありました。雨風で、ところどころ字が読めなくなっています。

この諏訪神社の歴史についてまとめられたものでした。

現在の神代地区にはかつて深大寺村と呼ばれた地域があり、この村の小名にはそれぞれ鎮守様が祀られております。

今回は小名野ケ谷の鎮守様について略記させて頂きます。

 

「小名」は「こな」と読み、小字(こあざ)の意味のようです。

歩いた深大寺用水東堀の跡に並行するように野ケ谷通りが南から北へと、深大寺東町の中を通っていますが、このあたりが小名野ケ谷でしょうか。

 

野ケ谷という小名は風土記稿では「村の東より北へかけてを云う」と記されとりますが、地名の由来については触れておりません。想像ですが地形からみて大部分が平坦な耕地で東北よりに窪地があり入間川の源泉となる釜(カマ)と言われる豊富な湧水のある谷戸田がひらけていたことに由来するものかとも思われます。 

この小名の鎮守様がこの諏訪神社だということのようです。

 

湧水谷戸田という言葉に引かれて、帰宅したら読んでみようと写真を撮らせていただきました。

 

 

 *水の守護神 諏訪神社

 

お社のご祭神は「建御名方命」で、配神の神は「倉稲魂命」と「大己貴命」とされております。またこのお社には男神の立像も祀られているそうでこの像は木造一本造で像高六.七cm、衣冠をつける彩色の像で江戸後期の作と言われております。

主祭神建御名方命は神社誌などによりますと大国主命御子神古事記の出雲譲國のとき譲國に抵抗を試み力及ばず信州に逃れここを鎮座地と定めたとあり、御名の「タケ」はこの神の威烈を示し「ミナ」は「水の」の意「カタ」は水の州、浅瀬で諏訪湖の州を守る名で諏訪湖の水の守護神でありそのため諏訪の神は古くは農耕上の水の守護神、生活の根源神として崇敬をされ、中世以降は威烈のある神として信濃氏の武家の地方進出によって全国に信仰が広がったものと解説されております。

今までの散歩でも、途中、諏訪神社をよく見かけたのですが、諏訪湖に関係した神社だと漠然と思っていただけでした。

農耕上の水の守護神であり、「生活の根源神」というとらえ方もあるのですね。

 

 

当地のお社の鎮座地は諏訪久保と言われる谷戸田をひかえ、入間川の源となる湧水地帯で水にかかわりのあるご祭神として纏ったのが創建ではないかと市史民族編では推論をしております。

 

そして続いて、「この地から湧き出る水が 人々の生活を潤していたー境内の木々が伝えるかつての田園風景」として、境内の詳しい説明が書かれていました。

その中に、神社のそばに「用水」が流れていたことが記されています。これが深大寺用水のことでしょうか。

 

そして野ケ谷通りもまた、「川」であったことが書かれています。

付記いたしますとこのお社のやや北を東西に流れていた大川(入間川)に架けられていた(現=深大寺東町6~24先)石橋の材(巾35cm、長2m、厚24cm)四枚が市郷土博物館に保存され「元文四年己未十一月吉日(1739)」の刻銘があります。この年代はその頃この辺りが開発された時期ともいわれております(市説明文)。現在川は「野ケ谷通り」と呼ばれる住宅街の幹線道路と変わっておりますが、昔は「野ケ谷田圃(たんぼ)」といわれた田園地帯であったようすを偲ぶ記念物のひとつと思われます。

 

ふらりと立ち寄った諏訪神社でしたが、思わぬ歴史の勉強になりました。

 

 

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