地図で古石場川親水公園の東側のあたりを見ていたら、「波除碑 平久橋碑」という表示を見つけました。
昔の埋立地の防波堤か何かかなと想像しながら地図をたどると、東西線木場駅の近くにある洲崎神社の境内に「津波警告の碑」を見つけました。
6月に入っていきなり連日真夏日になりましたから、散歩もどれくらい歩けるか不安はありましたが、古石場親水公園のあと体力が持ちそうならここを訪ねようと計画しました。
*波除碑(なみよけひ)*
旧運河の底に造られた公園からスロープを登って道に戻り、少し東へ歩くと水色の鉄橋が見え、「平久橋」と鉄骨にペンキで書かれていました。
狩野川の大仁橋に似ているなと、ふと「トラス橋」という言葉を思い出したのですが、帰宅して検索すると平久川に架けられた「単径間鋼製トラス橋」で、現在の橋は1993年(平成5年)に架けられたもののようです。
さまざまな形の橋がある風景も運河の街の魅力で、しばらく橋に見入っていました。
その手前に、壊れたコンクリートの柱のようなものと石柱があり、近づくとそれが「波除碑」でした。
寛政三年(千七九一)九月、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西二百八十間、南北三十余間、総坪数五千百六十七余坪(約一万八千平方メートル)を買い上げて空き地とした。そして空き地の両端の北地点に波除碑を二基建てた。当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。
碑はほとんど旧状を失っており、特に平久碑は上部三分の二を失っている。位置は旧地点を若干移動しているものと思われる。
建設は寛政六年(千七九四)頃、碑文は伝屋代弘賢、品質は伊豆五ケ村石(砂岩)。
総高百三十・八センチメートル。
Wikipediaの高潮を読むと、「古来は高潮のことを『風津波』や『暴風津波』、『気象津波』などと呼んだこともあった」と書かれています。洲崎神社の津波警告の碑も、地震ではなく高潮のことだったのでしょうか。
*海中の島にあった洲崎神社*
平久橋を渡りしばらく歩くと、首都高深川線の高架橋の向こうに真っ赤な鳥居が見えました。
洲崎神社です。
境内は少し周囲より高くなっていて、東側はまた別の運河のそばに建てられていました。
ここにも「波除碑」の同様の説明書きがありましたが、以下の部分が補足されています。
『東京市史橋』によれば、「 葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少なからす此後高なみの変はかりがたく流死の難なしといふへからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの也 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。
Wikipediaの波除碑の「歴史」に、「江戸幕府は洲崎弁天から西側一帯(1万8千平米)を買い上げて、以降家屋を立てるのを禁止して空き地とした」と書かれています。
現在は運河沿いまで大きなビルや住宅が立ち並び、首都高速の高架橋が通っている風景からは230年ほど前の様子が想像できませんね。
洲崎神社の「由緒」もありました。
当洲崎神社は元弁天天社と称し厳島神社の御分霊祭神市杵島比売命を祭祀しております。創立は徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄十三年、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賤袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮かべて妓婦の絃歌に興を催すとあり文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
明治五年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。対象の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大使作の御神体は幸いにして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎しておりましたが昭和四十三年現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。
現在は都心の鎮守の森という風景ですが、以前は海の中にあった島だったのですね。
沖へ沖へと平地を少しずつ広げて数百年。
埋立地との境界の歴史が記録されている神様のようです。
境内を出て木場駅に向かう頃から、川風いえ海風でしょうか、風が強くなってきました。
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