行間を読む 113 安政の大地震

1970年代半ばの高校時代に受けた日本史と世界史の授業では、時間が足りなくて十九世紀後半から二十世紀初頭の歴史は駆け足で習いました。

その時代が、まだ歴史として検証されていない時期だったのかもしれません。

 

先日の散歩から安政2年(1855年)の大地震が、湧水地帯であった地域の生活を一変させ、それが深大寺用水建設に繋がったことを知り、きっかけとなった安政の江戸地震を読みました。

安政江戸地震(あんせいえどじしん)は、安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である。世にいう安政の大地震(あんせいのおおじしん)は、特に本地震を指すことが多く、単に江戸地震(えどじしん)とも呼ばれる。 

 

高校時代の「歴史」は主に政治や経済の出来事を中心にしたものでしたから、災害の歴史はほとんど記憶にありません。

 

この「安政江戸地震」にリンクされていた安政の大地震を読んでみました。

安政の大地震(あんせいのおおじしん/だいじしん)は、江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震である。

 

世にいう「安政の大地震」は、特に1855年安政2年)に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年にあたる1854年安政元年)に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震安政八戸沖地震、その他伊賀上の地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。 

 

添付されている年表で初めて、幕末から明治に入るまでは大きな地震が頻発していた時期だったことを知りました。なぜ、こんな大事な時代の背景をいまに至るまで知らなかったのか、不思議なくらいです。

 

「幕末に連発した大地震」を読みました。

1853年7月8日( 嘉永6年6月3日)にはアメリカ合衆国の黒船来航、同年8月22日(7月18日)にはロシア海軍のディアナ号が来航し、江戸幕府は相次いで開港を迫られる時勢にあった。ディアナ号で来航したプチャーチン嘉永7年11月4日の安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていた。

 

東海地震津波で荒廃した下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉に当たった。ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされる。

 

安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった。

 

 

2019年にハリスらが江戸に向かう途中で宿泊した修善寺の弘道寺を訪ねた時に、あえてこの山中の道を歩いたのは「下田から海沿いに行く道はなかったか、あっても危険なので、天城山を越えて遠回りをしながら江戸へ向かったのだろうか」と想像したのですが、まさに安政の大地震の最中だったのですね。

 

地震が続き、地元の人たちの生活はどんな状況だったのでしょう。

それまで出会ったこともないような外国からの要人を受け入れたのは、被災まっただ中の人たちだったとは。

生活を立て直すだけでも大変な中、幕府からどれだけの税や使役が課されたのでしょうか。

 

幕末から明治の驚異的に変化する時代を、災害史からみてみると何か違うものがみえるかもしれませんね。

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら