水のあれこれ 177 日野用水

日野用水について詳しい説明を探してみたところ、国土交通省の「多摩川の見どころ」に「20.日野用水(東京都八王子平町〜日野市)がありました。

ちょっと長いのですが、そのまま記録しておこうと思います。

 

 日野市域は、 江戸時代に多摩川と浅川から引かれた農業用水路が市内を網の目のように流れ、崖線からの湧水群が現存する大変水に恵まれた地域です。このような特徴を生かした街づくりを進めていることが評価されて国土交通省選定の「水の郷百選」にも選ばれています。

 

日野用水の始まり 

 日野用水は、美濃國(岐阜県)から移住してきた佐藤隼人によって室町時代後期の1567年(永禄10)に開拓された用水です。

 この頃、日野市域は小田原北条氏の支配下に入り、滝山城(のちの八王子城)の城主であった北条氏照多摩地域の開発を積極的に進めていました。佐藤隼人は北条氏照から許可を得ると、罪人を使役して日野用水を開削しました。

 

江戸時代の日野用水 

 江戸時代の日野用水は、日野本郷・万願寺・下田村・新井村・石田村・宮村・上田村の七ヶ村を灌漑しており、日野領七ヶ村用水組合を結成していました。「旧高旧領取調帳(関東編)」によると、これらの村々のほとんどは、江戸幕府直轄の幕僚だったようです。

 日野七ヶ村用水(現在の日野用水)は右図のような灌漑流路を辿っていました。取水口のある平村(現在の日野市南平)から日野本郷(現在の日野駅付近)に引き入れられた水は、宮村に入り万願寺村を流れ、新井村・石田村に流れます。下田村は宮村から流れてきた水を新井村へ流しています。上田村については七ヶ村用水ではなく浅川支流と堀の内村から水を引いていましたが、上田村が所属していた三ヶ村用水組合に宮村と万願寺村が含まれておりこの二村が七ヶ村用水組合の構成村であったこと、また元々「田村」という一村が「上田村」と「下田村」に分かれたという記述が「新編武蔵風土記稿」にあることから、「上田村」も七ヶ村用水組合に編成されたと考えられます。

 

日野市の幹線水路 

 日野市域はちょうど西側を向いた犬の横顔のような形をしていて、犬の耳から後頭部を通り首に当たる部分を多摩川が、犬の口から顔の中心を通り首に当たる部分を浅川が流れています。この二つの大きな河川である多摩川と浅川によって発達した「沖積低地」、これらの河川の河岸段丘によってできた市域の西側に広がる「日野台地」、そして市内南側に位置する「多摩丘陵」の三つの特徴ある地形によって形成されています。

 日野市には日野用水の他にも多摩川・浅川・程久保川から取水している水路が多く存在し、市内を川とほぼ平行に流れるその総延長は約177kmに及びます。日野市を取水口とした用水幹線は9つあり、程久保川からの一宮関戸連合用水をはじめ、浅川からの向島用水・高幡用水・新井用水・上田用水・豊田用水・平山用水・川北用水・上村用水がそれにあたります。水に恵まれた日野市域では稲作が進んで「多摩の米蔵」と呼ばれていました。

 

現在の日野用水 

 1605年(慶長10年)、甲州街道と同時に日野宿も整備され、1716~35年の享保年間には新田開発奨励により農地拡大が進みました。1889年(明治22年)に甲武鉄道(現在の中央線)の新宿ー八王子間が開通し、翌年には日野駅が開設されました。1893年明治26年)に多摩地域東京府に返球され、日野宿は「日野町」に改められました。

 昭和に入り、世界恐慌のあおりを受けて昭和恐慌に陥りますが、日野町はこの打開策として工場誘致を展開し、1934年(昭和9年)頃から「日野五社」を始めとする企業の進出が始まると、次第に都市化傾向となり急激に人口も増えてきました。土地利用についても、農地が減少し宅地が増加してきたことで、生活雑排水が用水路に多く流れるようになり、1968年(昭和43年)ごろから用水の水質が低下してきました。そのため、水質改善を目的として、1976年(昭和51年)に日野市公共流域の流水化に関する条約である「日野市清流条例」を施工し、市内8用水団体と「用水路年間通水業務委託契約を結んで、日野市内の用水路に年間通水を行うことにしました。

 1985年(昭和60年)頃からは、ビオトープや親水公園等市民が親しめる施設を整備を始めました。1980年(昭和55年)には各団体の役員による「清流監視員(清流レンジャー)」制度を設け、用水に関する日常的な管理・監視は住民に委託し、水路施設の補修・改修は市が行うといった役割分担がされています。

 

 

よそう森公園の碑文はこういう歴史があったのですね。

1990年代に私が初めて日野市を訪ねて「市内のあちこちに清流が流れる小さな水路がある」と印象に残ったのは、川や水辺をきれいにしようという社会のうねりが実を結び始めた頃だったのかもしれません。

 

そういえばあの頃は、街のあちこちに「清流の街」といった幟(のぼり)を見かけた記憶があります。

あの時にも十分に美しい水路の街だと思ったのですが、30年前、40年前の人たちの熱意がなければ今の風景はなくなっていかもしれませんね。

 

 

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