記録のあれこれ 100 「検見川発掘日記」

府中市郷土の森公園の池の大きな蓮の葉と蕾に気持ちが癒されたあと、府中市郷土の森博物館に入りました。

府中用水による新田開発の歴史を知ることができるかなと期待したところ、なんと常設展は建物の改修工事中で見学できませんでした。

残念と思った時、「大賀博士とハスの図譜」というミニ展示が目に入りました。

 

大賀博士の名前を初めて知ったのは、4年ほど前に古代蓮を知った時でした。そして翌年、行田市まで出かけて見ました。

それまではハスとスイレンの違いさえあまりわかっていなかったので、種をみて古代蓮だとわかるとはなんとすごいことかと「発見した」人の名前が記憶に残りました。

その大賀博士は、62歳にこの府中に居を移したそうです。

 

*「検見川発掘日記」*

 

この展示では、「検見川発掘日記」という大学ノートが公開されていました。

1951年3月5日から4月6日までの発掘調査を記録したもののようです。以下の説明に目がとまりました。

最初にハスの実が見つかった3月30日には、17時10分に七中の女生徒が、「篩により蓮の実一個を発見」したと記されている。

 

蓮の実を「発見した」のは女生徒だったこと、そして発見した日時が記録されていました。

 

Wikipedia大賀一郎では、「発見」について以下のように書かれています。

1951年(昭和26年)、千葉県千葉市東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)内の落合遺跡で、今から2,000年以上前の古代ハスの実を発見した。同年5月に古代ハスの実が発芽、翌年開花し、このハスは大賀ハスと名付けられた。

 

 

同じくWikipedia大賀ハスの「概要」には、その発掘調査についてもう少し詳しく書かれていました。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために、花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていることに着目し、東京大学検見川厚生農場の一部を借り受け草炭を発掘していた。採掘は戦後も継続して行われていたが、1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま1雙の丸木舟と6本の櫂を掘り出した。このことから慶應義塾大学による調査が始められ、その後東洋大学と日本考古学研究所が加わり1949年(昭和24年)にかけて共同で発掘調査が行われた。その調査により、もう2雙の丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったことと推測され落合遺跡とよばれた。そして植物学者でハスの権威でもある大賀一郎(当時・関東学院大学非常勤講師)が発掘品の中にハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行った。調査は困難をきわめめぼしい成果はなかなかあげっれなかったが、翌日で打ち切りという30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により地下約6mの泥炭層からハスの実1個が発掘され、予定を延長し4月6日に2粒、計3粒の蓮の実が発掘された。大賀は5月上旬から発掘された3粒のハスの実のはつが育成を、東京都府中市の自宅で試みた。2粒は失敗に終わったが3月30日に出土した1粒は育ち、翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせた。

 

 

「注」によれば、「七中」は3月31日まででその後は花園中学になっているようです。

 

  

ちなみにその展示では、ミニ展示のタイトルの「図譜」についての説明もありました。

図譜とは、詳細で緻密な画が描かれた図鑑のようなもので、近年はボタニカルアートという呼称も用いられるようになった。 

植物の持つ特性を変えない記録が基本にあったからこそ、2.000年前のものであることを博士も「発見」できたのでしょうか。

 

 

ちょうど70年前に一人の女子中学生が発見した蓮の実が、大賀博士によって1年後に花をつけ、そして現在、全国のあちこちで花を咲かせているのですね。

3年前はその説明を読み飛ばしていましたが、今回その背景がもう少し理解できました。

「3月30日、17時10分に七中の女子生徒が発見」という記録によって、もっと状況を知りたいと思わせられたのでした。

 

 

 

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