念願の水の音と静寂の中での深大寺蕎麦を食べていると、しだいに西の空が黒くなり、遠くで雷鳴が轟き始めました。
先を急いだ方が良さそうです。
散歩の最後の目的地は深大寺深沙(じんじゃ)堂です。
神代植物公園の南側の深大寺門を出ると深大寺の裏手の崖線に沿って道があり、以前歩いたことがあります。
それよりもさらに西側にもう一本道があり、それがこの深沙堂の脇に出る道だったようです。
小さなお堂で、その前を何度か通っていたはずなのに、水の神様だとは知らずにいました。
本堂などのある寺地の中心より西に一町(役120m)ほど離れた所に深沙堂があります。昭和43年(1968)に再建されたもので、正面二間半、奥行き三間半(一間は約1.8m)、入母屋造り銅板葺き、妻入り。正面に向拝があります。また、堂の背後には、この地の水源であり、深大寺の発祥に関わる泉があります。
旧堂は大師堂に匹敵する大きさがあり、寄棟茅葺きの屋根で、正面に切妻屋根の向拝が付いていて、深沙大王祀、深沙大王社と呼ばれていましたが、明治元年(1868)の神仏分離令によって取り壊されてしまいました。同じ時期に、堂前にあった鳥居も取り払われ、今はその跡だけが残っています。
(深大寺のホームページの「深沙堂」より)
*水神「深沙大王」*
さらに「深大寺開創と水神『深沙大王』」に以下のように書かれています。
『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲になりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮かべ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇端を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのか満功上人であったと伝えられています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果たすために出家し、南部に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説であります。
いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。
深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話は有名ですが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を厳修しますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王三像が描かれている十六善神図が掲げられます。
お堂のそばは崖下の鬱蒼とした森と草地で、水源のあたりを見ても泉がどの辺りなのかよくわからないのですが、そこから20mくらいの水路には轟々と水が流れ始めています。
今までは大きな深大寺本殿とその前の水路に目が行っていたのですが、西の端にあるここが水源であり、その水の神様であったことを知りました。
空模様が怪しくなりあわててバスに乗って吉祥寺に向かうと、雷雨がちょうど吉祥寺を通過した後だったようです。
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