米のあれこれ 25 「一世代に一干拓」

倉敷駅から徒歩十数分ぐらいのところにあった祖父母の水田は江戸時代か明治の干拓地ではないかと思うのですが、どのように干拓されたのかについて正確な歴史にはたどりつけないままでいます。

 

瀬戸内海の島の周囲の遠浅の部分に堤防を築き、大きな河川から水を入れ、しだいに土の塩分を抜き塩に強い綿を栽培しながら水田にする。

気が遠くなるような時間をかけてできた土地ですが、100年200年とたつとそんな苦労は土の表面から気づくことができなくなりますね。

 

*「一世代に一干拓」あるいは「50年に一干拓」*

 

「肥前佐賀の水土の知」の二章「特異な水土②  創造された大地」に、佐賀平野干拓の歴史が書かれています。

干拓の歴史は古く、『和名抄(わみょうしょう)』によれば鎌倉末期、すでにその記述が見られる。しかし、それ以前にもこの地に住んだ先人は零細規模の干拓を繰り返して来たものと思える。

潮止めのための堤防を築けばその前面は浮泥の堆積がより促進される。すると後背地の水田は排水できなくなるので、さらに前に前にと堤防を築かざるを得なくなる。

古くから、この地では「一世代に一干拓」、あるいは「50年に一干拓」と言われて来た。

 

米の収量を上げるために干拓地を拡大して来たのかと思っていたのですが、こんな理由があったのですね。

 

*「佐賀平野も、その大半が佐賀の農民によって造られてきた、まさに手造りの大地」*

 

具体的な干拓の方法が書かれていました。

江戸時代には藩営の干拓も見られるが、この地方の干拓はそのほとんどが「村受け」と呼ばれる制度で、農民の手によって行われたものである。

この制度では、「航頭(もやあがしら)(干拓の発起人)」の下に20~30人、もしくは50~60人の「搦子(からみこ)」がついて堤防を造成し、その持分に応じて干拓地が配分されるというもので、完成後は長期間無税、しかも肥沃な農地が手に入るというわけで、農民の意欲はかなり高かったらしい。

工法は素朴である。干拓エリアに松の丸太を1.5m間隔に打ち込む。これに粗朶(そだ)や竹を絡み付けた後、5~10年放置して干潟の成長を待つ。小潮時を見計らって土居(堤防)を築き上げる。父や長男達は土を投げ入れ、母と妹達が土居を叩いて固める。最後は潮止め。松の丸太を三段に築き、その中に土俵で盛土する。

 

したがって、規模は小さい。概ね5ha以下の小さな干拓が鱗状に重なって形成されてきた。

規模は大きくなっていくものの、こうした個人、あるいは民営干拓は明治以降も続けられた。 

 

佐賀平野筑紫平野の息をのむような不定形の水田の広がりは、まさに「農民の手によって造られてきた、手造りの大地」の歴史だったことを初めて知りました。

 

それにしても「5~10年放置して干潟の成長を待つ」とは。

平均寿命が格段に伸びた現代でも、頑張って作っても50回という農業なのですから、当時はどんな想いでその時間を待っていたのでしょうか。

 

 

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