記録のあれこれ 101 「一級河川筑後川 花宗水門」

デ・レーケ導流堤に行く前に花宗川との合流部の水門の上を通るのですが、そこに説明板がありました。

地勢・水文 

 

 本地点は筑後川において最下流に位置し、有明海まで6kmと極めて近い位置にある。本地点において、筑後川は本流と早津江川(はやえつがわ)に分流しており、また、本地点の約2km上流において城原川(じょうばるがわ)と合流している。この付近の筑後平野は、筑後川の沖積作用を受けて形成されたデルタ地帯となっている。

 筑後川の出口となる有明海沿岸は満潮と干潮の水位差が6mと非常に大きく、そのことが筑後川の水利用にも大きな影響を与えている。

 その一つは、有明海沿岸においては古くから干拓が行われており、多大なる面責の干拓地が見られる。本地点よりも下流一帯ほとんどが干拓地である。このことは付近の干拓地の佐賀県側にみられるる「籠(ごもり)」、「搦(がらみ)」という地名や、福岡県側に見られる「開(びらき)」という地名などからもわかる。

 2つ目は、潮の干満差を利用して、伝統的にアオ取水が行われてきたということである。これは、満潮時において比重の大きい海水が海底部に沿ってさかのぼるとき、水位の上がった表面付近の淡水を汲み入れようとするものである。

 また、これと関連して、この付近には「クリーク」も多く見られる。

「クリーク」は、一種の掘り割りで、かつては一帯の水田地帯に分布していた。取水したアオを貯留する役割を持っていたものであるが、現在は圃場整備とともに、取水は筑後大堰に集約され、旧クリークは幹線水路として、その役割を変えている。

 筑後川本流下流方向の中央部に流れに沿って堤防が見られるが、これは「デ・レーケ導流堤(オランダ堤とも呼ばれる)」で、明治時代に建設された。この堤防は、筑後川の蛇行を防ぎ、また流速をあげることによって、堆積を防ぎ、航路を維持する役割を果たすものである。

 

経済・社会 

 

 大川市は港町、木材の集散地として栄えてきた。昭和20年代までは、上流日田地方の木材が筏(いかだ)で大川まで下り、農業用水車、川舟、漁船や家具等に加工され、筑後川流域木材流通の一大拠点となっていた。近年は輸入材中心の家具工業の町として工場や店舗の大型化、郊外拡散が進んでいる。

 上流方向に見られる筑後川昇開橋は、旧国鉄佐賀線の鉄橋として1935年に開通した。船舶の航行のために可動橋となっていた。佐賀線は1987年に廃止されたが、現在は遊歩道となっている。1996年に国の登録有形文化財に指定された。

 

生態 

 

 筑後川下流域や有明海には、国内の他の地域では見られない生物が多く、これらの特産種の中には中国や朝鮮半島など大陸沿岸に生息するものと共通の種類が多い。干潟のムツゴロウ、ワラスボなどが国内では有明海のみであるが、大陸沿岸には同一種が分布している。また、エツやアリアケヒメシラウオは世界でも筑後川下流域と有明海流入する一部の河川にのみ生息するが、大陸沿岸にも近縁種が分布している。これらは、日本列島がかつて大陸とつながっていた時代のなごりであり、大陸と共通する「大陸遺存種」と呼ばれる。

 

 

 

写真を撮った時には1枚におさまる小さな説明板でしたが、帰宅してからこうして読み直すと、簡潔で、それでいてこの地域の歴史や様子を網羅した記録でしょうか。

この散歩を計画していた段階で少しずつ検索しながら得た知識が、そのまま書かれています。

 

まさか、変哲のない一水門の前でこんな文章に出会うとは思ってもいませんでした。

 

 

そしてすべての漢字に読み仮名がつけられていて、小学生にも読めますし、大人でも正確に読むことができます。

日本語の読み方は難しいですからね。

そして、日本語を習い始めたばかりのあらゆる人や専門用語を知らない人もまずは文字を読むことができ、そして世界が広がりそうですね。

 

 

 

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