水の神様を訪ねる 41 小野島村の天満宮と海津見神社

干拓の歴史に圧倒されて諫早干拓資料館をあとにして、次の目的地の海津見神社へ向かいました。

 

資料館から200~300mほど西へ歩いたところの天満宮に石碑があり、その石碑の説明がありました。

半造川底樋廻水頌徳碑由来記

 

 この碑は主*人を青木弥惣右衛門とし、他に当時の小野島村の庄屋・横目などの村役人の名前が彫りつけてあります。文化十年(一八一三年)六月に完成した「半造川底井樋廻水」の建設当事者たちに対する感謝の記念碑です。文化十年と云えば長寿篭(一七七九年完成)は完成していましたが、大開き(外長寿篭)は未だ諫早湾の時代です。当時は干拓は出来ても用水不足で米の栽培どころか、半造川の岸辺に立って対岸を見ますと、山下淵から取水した用水によって輪内名田井原は満々とうるおされ有り余って残り水を川に放水している有様です。何とかその水を小野島地区に頂きたいと言うのが村人たちの切なる願いでした。

 青木弥惣右衛門は小野島在住の諫早家家臣で堤の土手の修理をしたりする技術者でした。彼が自信を持って書いた設計図をつけて小野島村の総百姓が諫早家に建設嘆願書を出したのが文化十年四月で許可書が出たのが二十三日、経費も役所から銭百五十貫と用材をもらって着工し田植えに間に合うようにと工事を急いで見事完成しました。この工事によって今まで大豆や綿などしか出来なかった何百町歩に米作が可能になりました。まさに青木弥惣右衛門様は小野島町民の恩人ということが出来ましょう。この碑は弥惣右衛門の直系の子孫である弥助氏が彫られたもので、昭和三十三年松本静夫町内会長の時代に青木弥惣右衛門並びに関係者の遺徳を偲び小野島町町民により建立された。

 

*「主」の後は「盲」かと思ったのですが、よくよく見ると「亡」に「日」という字が彫られていました。調べて見ても該当するような字もなく、意味がわかりませんでした。日本語は難しいですね。

 

 

先ほどの諫早干拓資料館で知った「底井樋廻水(そこいひかいすい)」は、このあたりのようです。

 1700年ごろは小野島村もできあがり、干拓地はさらに沖へと広げられていきました。干拓地が広がるにつれて、大変困ったことが出てきました。それは水の不足であり、干拓地の水田はわずかな日照りでもすぐに干ばつの害を受けるようになったのです。そこで、なんとかしてこの用水を確保しようとして造られたのが底井樋廻水でした。

 このしかけは文化10年(1813)に作られ、半造川の川底に樋管(ひかん)を埋め、これによって諫早側の豊かな水を小野側へ流そうとするものでした。これを考案し、工事の指図をしたのは青木弥惣右衛門という人です。

干拓資料館の展示「底井樋廻水」より) 

 

ちょうどこの辺りも田植えの真っ最中で、トラクターに乗った方々が水田に見えました。

用水路に水が流れるように、雑草をとっている方もいらっしゃいました。

 

しばらく歩くと大きな用水路があり、その向こうにも住宅地がありました。集落の中を歩いてまた水田が広がる先に、鎮守の森が見えます。

水田の中に目指す海津見神社がありました。

先ほどの天満宮もそうでしたが、神社は民家のような建物です。賽銭箱もありません。

この辺りは川内町になるようで、明治時代の青年会の記念碑や区画整理の記念碑など大きな石碑がありましたが、ご由緒はわかりませんでした。

検索すると海津見(わたつみ)神社は海の神様でしょうか、高知や千葉にもあるようです。

 

そのさらに西側に堤防があり、そこが半造川です。

どこをどうやって対岸から水を引いてきたのでしょうか。

 

 なんとなく神社のある道を選んで歩いたのですが、干拓資料館に行く前に見た水田から水があふれている風景と200年前の様子がつながりました。

そしてこの辺りは、江戸時代の干拓によってできた地域のようです。

 

 

 

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