行間を読む 117 江戸時代から平成の干拓

少し間があきましたが、ただひたすら川と海と干拓地を見に行った遠出の2日目の記録の続きです。

 

諫早干拓資料館のパネルで、干拓の具体的な方法の変化が4枚のパネルで説明されていました。

 

 

江戸時代後期以前の干拓堤防 

 

 有明海沿岸の改定は周囲の河川から流れ込んだ泥水が、長い年月の間に自然の営みによってできた軟かい粘土で、これがだんだんと積って高くなり、満潮でも水深が浅く干潟の時間も長くなるので、潮が引いた時に杭や竹等を立てて人の力で潟土を盛り上げて堤防を築き干拓したものですが、堤防は土でできているので波や雨で流されることもありました。それで広い面積を干拓することはむずかしく、狭い面積を次から次へ沖の方へと進めていきました。

 

江戸時代後期以降の干拓堤防 

 

 江戸時代の中頃までは、潟土を盛り上げただけで堤防はできましたが、沖の方へ進むに従って土だけでは波に流されるので、石を使って堤防を造るようになりました。

 堤防には粗朶(そだ)を敷き石を並べて基礎を造り、海側には石を積み重ね内側に潟土を盛り上げ、海水の侵入を止めて堤防を造りました。それまでに干拓されていたところも安心してできる丈夫な堤防になりました。

 

 

以前だったら、この2枚のパネルからは「江戸時代の未熟な土木技術」の印象だけが残ったのだと思います。

最近はまず、海水を含んだ土から農地にするという発想はどうやってできたのだろうと、その一点だけでも畏敬の念を感じるようになりました。

 

埋め立てる技術だけでもすごいのですが、5~10年放置して干潟の成長を待ち塩分につよい作物を植えて産業にしたり、淡水を得て水田にすることまで、その時代の人たちが築いた技術にただただ感嘆です。

 

さて、江戸時代の次はさまざまな技術が飛躍的に発達した明治時代のことかと思ったら、3枚目のパネルは昭和についてでした。

 

昭和の干拓堤防

 

 昭和になってからは干拓の技術も進み、いろいろな機械を使って堤防を造るようになり、その位置もさらに沖へと進み広い面積を仕切るようになりました。

 堤防は石やコンクリートで本体を造り内側に潟土を盛り上げて築くのですが、この方法では基礎が軟かいので堤防はその重みで下がり、外側や内側がふくれ上がります。そこで、そうしたことを防ぐために堤防の外側に石や泥を積み上げてバランスを保っていました。さらに台風などで波が堤防を越えて盛り土を流すことのないようにと、アスファルトで舗装し保護していました。

 

一世紀前はまだ、当時のセメントが水中ではうまく固まらず、治水・護岸には用いることができなかったことが、「明治・大正の堤防」についての説明がない理由でしょうか。

身近なコンクリートについても知らないことばかりです。

 

 

さて、最後のパネルが、おそらくこの干拓資料館ができて10年ほど経ってから追加されたものと思われます。

平成の潮受堤防 

 

  平成4年10月に着工し、同9年に締め切りとなった潮受堤防は長さが7,050m高さ7mの大きさで、諫早市高来町雲仙市吾妻町を南北に結んでいます。海を仕切る堤防で北部と南部に排水門を設け、内側の調整池の水はここから排水しています。この堤防は軟弱な潟の上に築いているため地盤強化としてサンドコンパクションパイル工法により潟のなかに砂杭を岩盤まで通し、まず基礎を固定しその上に築いたものです。

 堤防は平成19年12月からは道路としても活用することとなり、島原半島へより近い道路として人と物との流通路として欠かせなくなっています。

 

 

「潟のなかに砂杭を岩盤まで通し」

わかりやすい文章ですが、まず「砂杭」が読めません。「すなくい」のようです。

こうした一つの言葉にも、あらゆるリスクまで想定する専門性によって、昭和から平成に干拓事業は大きく変化したのかもしれない。

そして時代の変化で、新しい流れや方向性に葛藤しながら進むしかない。

 

そんなことを自分の仕事と重ね合わせながら、この4枚のパネルを読みました。

 

 

 

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