難民についてのあれこれ 8 難民と亡命

オリンピック自国開催だと予選から放送してくれることは、メリットかもしれませんね。

競泳でも世界水泳ではほとんどカットされる予選1組からの放送があり、ふだんの国際大会では目にすることのない国の選手の泳ぎを見ることができました。

ただ、そうした国々の選手も「強くなりたいとアメリカに渡った」という解説もあり、エリートのスポーツになりつつあることが気になるところです。

 

57年ぶりに日本でのオリンピックですが、開催国ではこういうニュースがあるのかとオリンピックの一面を知ることになった2つのニュースがありました。

ひとつは「自国では十分なトレーニングができない」と日本に住むことを希望した選手について、もうひとつは自国の方針に批判的な発言をしたことで迫害の危険を感じヨーロッパのある国へ亡命した選手のニュースでした。

 

難民の定義と亡命の差はどこにあるのだろう、またわからないことが増えました。

 

*大村難民一時レセプションセンターができるまでの数年間*

 

最初の東京オリンピックから十数年後、それまで「難民」という言葉も耳にしなかった日本の社会は「一時庇護」か「定住受入れ」かの判断を迫られるようになっていたようです。

 

前回紹介した資料に1977年頃からの様子が書かれていました。

1977年以降:定住目的の在留許可以降

 

 始めてのインドシナ難民であるベトナム難民が千葉港に上陸してから2年が経過したが、日本に到着するインドシナ難民の数は増加の一途であった。また、民間の一時滞在施設は不足し、立正佼成会天理教救世軍日本赤十字社が加わることで不足をなんとか補う状況であった。その他、一時滞在施設から「第三国」への出国を試みたものの、相手国の受け入れ政策の関係で受入れられず、いわゆる「滞留難民」として、滞日生活が長期化している難民も目立つようになった。

 このような状況において政府は1977年に「ヴェトナム難民対策連絡調整会議」(1979年に「インドシナ難民対策連絡調整会議」、 2002年に「難民対策連絡調整会議に改組」)を設置し、インドシナ難民への対応に関する本格的な協議を開始することとなる。しかし「ヴェトナム難民の本邦における定住等の問題については、引き続き今後、検討する」とし、結論は出なかった

 しかし、インドシナ難民の著しい増加のなか、先進国では定住枠の拡大が一つに主要課題であり、わが国の「(UNHCRなどの国際機関に)お金を出してもよいから、難民の引き取りは断りたい」(朝日新聞1979.11.19)といった態度は「定住」に関する国際的な圧力が生じる要因になっていた。そのこともあり、政府はこれまでの「一時滞在」中心のインドシナ難民の庇護政策から、閣議了解「ヴェトナム難民の定住許可について」で、ヴェトナム難民の定住を認める方針に変換することになった。ただし、定住許可の条件は以下の3つのケースに該当する必要があった。①日本人配偶者、親若しくは子または適法に日本に在留する外国人で、安定した生活を営んでいると認められるものの配偶者、親もしくは子②安定した生活を営み、かつ長期にわたり本人の保護者になるにふさわしい善意の者であると認められる里親のある者、③健康であり安定した生活を営むに足りると認められる職についており、かつ長期にわたり本人の身元を保護する確実な身元保証人と認められるもののある者およびその配偶者、親又は子、の3ケースである。ボートピープルが突然、わが国にたどり着く状況を考えると、最初から「安定した生活」を担保にすることは無理があり、非常に難しい条件であると言わざるを得ない。実際に定住を申請し、許可されたのは1978年末までに3名、1979年に入ってから2名であった(内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局 1998)。ボートピープルの多くがアメリカ、カナダ、オーストラリア等の国々へ定住を希望していることや、定住を許可した者に対する日本語教育や職業紹介といった定住促進のための体制が整っていなかったことも反映しているが、あまりにも少ない定住者数であり、条件面の厳しさを反映していたと言える。

(強調は引用者による)

 

たしかに「条件」は厳しいものですが、現在も社会の意識はあまり変わらないかもしれませんね。

 

そして1979年には「500人の定住枠を設定」し、ヴェトナム人だけからラオス人、カンボジア人にも枠を広げた経緯があるようです。

姫路、大和、東京に「定住」のための施設がつくられ、大村は第三国出国までの「一時的滞在施設」としての施設だったので、私が記憶していた大村の施設の機能は間違っていたようです。

 

 

難民や亡命どころか、経済難民とか移民になるという言葉もあまり身近なことではない社会なのはこの半世紀ほど変わらないのかもしれないと、冒頭のニュースと大村難民一時レセプションセンター開設までの歴史を行ったり来たりしています。

 

 

 

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