水の神様を訪ねる 42 児島湾干拓地の「守護神」

4年ほど前に岡山の干拓地を歩こうと思い立って資料を検索しているうちに、「藤田」という名前が明治以降の干拓の中では深い関わりがあることを何となく知りました。

 

てっきり岡山の地主かと思っていたら、大阪の豪商であり、「児島湾干拓ー藤田伝三郎の業績ー」に生本伝九郎による案をムルデルの科学的な調査によって作成された計画を実現するために、生本伝九郎が藤田伝三郎を探し出したことが書かれていました。

 

当初6人の組合経営で計画された干拓事業がなかなか足並みがそろわず、そのような中でも藤田伝三郎は独力でも干拓事業を成し得ようと十数年の時間をかけたようです。

さらに地元の人からも反発があり、時間がかかっていたことが書かれています。

 

反対運動に加え、明治25年(1892)・26年(1893)に大洪水が起こり、また県知事も交代して進展しないままの時期もあり、ようやく「明治17年以来20数年にわたり、ごうごうたる反対の声のなかで堅忍自重を続けながら起工にこぎつけ」、その後は「機械化農業の先進地」として発展して行ったようです。

 

地図で藤田神社を見つけた時にはまだあまり藤田伝三郎氏のことを知らなかったのですが、ぜひ訪ねてみようと思ったのでした。

 

 

*藤田神社*

 

鬱蒼とした鎮守の森の周りには、水路からひいた水の流れがありました。

広大な干拓地の中の、オアシスのような場所です。

御由緒らしきものを探して見ましたが、わかりませんでした。

 

 

帰宅してから藤田神社のサイトをみると、「藤田傳三郎と藤田神社」という記事がありました。

その中に以下のように書かれています。

巨万の富を築いた藤田伝三郎でしたが、日本の国のため、慈善事業や学校教育の面で多額の寄付も行ったことでも知られています。

 

藤田家の私財を投げ打った児島湾干拓事業

 

明治時代を代表する政商として、各界で活躍した藤田傳三郎でしたが、特に児島湾干拓事業は、彼の功績のなかでもひときわ異彩を放っています。藤田傳三郎は、広大な干拓地の埋め立てのために、藤田家の私財を投じ続けたという点で驚くべきものがあります。

 

児島湾干拓は江戸時代は岡山藩、明治に入ってからは岡山県による、いわば公共事業として進められていました。しかし県の財政は厳しく、また干拓事業のスケールの大きさを前に継続を断念します。夢のような話とまで言われた事業で、国に事業の継続を要請しても、必要資金があまりにも多額なため断られます。当時の県令(現在の県知事の役職)であった高橋五六は、関西や関東の財閥に事業継続のお願いに走ります。

しかしあまりにもスケールが大きく、成功の保証もない、採算がとれるあてがない干拓事業を引き受けてくれる者はいませんでした。そんな中、立ち上がったのが当時、大阪でゆるぎない地位を確立していた藤田傳三郎だったのです。干拓事業が持つ広大な国土再生計画に夢を感じた傳三郎は、国利民福を掲げて一歩を踏み出しました。

 

困難極まる児島湾干拓事業、奮闘の日々

 

一歩を踏み出したかに見えた干拓事業ですが、明治22年に国の許可は下りるものの、地域住民からの猛烈な反対運動を受け、着工までに約10年かかったと言われています。結果、工事がスタートしたのは明治32年でしたが、全行程が完成する昭和28年まで続く、苦難の日々の始まりとなりました。

想像以上の底なし沼の状態に、一間あたり1万3000貫以上の堤防を、延々と何十里も築こうとする、困難極まりない工事となりました。

松丸太杭を打ち込み、竹シガラを編み、堤心は土を盛り築きますが、数時間のうちに泥の中に呑みこまれるというありさま。工法を変え、丈夫な基礎工事をし、その上に石垣を築き、石灰眞砂土のコンクリートで隙間を埋める工法にたどり着きましたが、地盤の悪さに苦難は続きました。この誰でもが放り出しそうな状況を、傳三郎は諦めることなく事業を続けます。

干拓は5500町歩(1650万坪)を第1工区~第7工区にわけ、莫大な費用と時間が過ぎる中、明治45年3月30日傳三郎は完成を見ることなく他界いたしました。

 

傳三郎の後を継いだのは、藤田財閥第2代目当主藤田平太郎でした。平太郎は第2工区末より事業を進めますが、彼にもまた苦難の道が続きます。出来上がった土地での塩害、水害、疫病など悩まされる中、平太郎は父の教えに導かれ、「神仏を尊ぶ事、成就の理也」と干拓の成就に土地の鎮魂を願い、大正4年に神社を建立します。これが当宮となる『児島湾神社』です。

 

10タラントン持つ人はその10タラントンを生かす人であり、このサイトによればそのことで表に出る人でもなかったようです。

 

「青海変じて美田となす」(藤田神社、同記事より)

藤田傳三郎は自身の目でその夢の実現を見ることが叶わなかったとのことですが、明治に入ってからの、一世紀先を見越したかのような「人類のため」「事業で得た金を社会へ還元する」といった社会のうねりはどのように広がっていたのでしょうか。

 

 

 

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