間があきましたが、7月中旬に、二つの池の蓮を見に行くという欲張った散歩の続きで、この日はさらに欲張ってもうひとつ行く場所を決めていました。
薬師池公園の北側に鶴見川が流れています。
地図で見ると、鶴見川の旧河道と思われる蛇行した水色の線が描かれていたり、途中で複雑な水色の形の箇所があって「鎧堰跡」とあります。さらに2~3kmのところに鶴見川の源泉があります。
4年ほど前に購入した「東京湧水 せせらぎ散歩」で知った場所で、いつの間にかこの本に紹介されている場所はほとんど訪ねたのですが、この源泉はまだ行っていませんでした。
都内でも神田川の源流をはじめ、善福寺川、妙正寺川、石神井川、白子川など、現在の住宅地のど真ん中にその川の始まりがあり、気軽に「源流」を見に行くことができます。
鶴見川の源流となるともっと山の中にあるようなイメージでしたが、その本を見ると周囲に水田が広がっています。
どんな場所なのだろう、いつか見たいと思っていました。
*鶴見川の遊歩道を歩く*
薬師池公園を出て民権の森公園の方へ上り坂を歩くと野津田神社があり、そこからは鶴見川へ向かって下り坂になります。
GPSで確認しながら歩いたのですが、一本道を間違えると別の谷底へと向かうことになるくらい「多摩丘陵の南部で非常に起伏が激しく」(Wikipedia「薬師池公園」)を実感しました。
鶴見川沿いには遊歩道があり、静かな道をのんびりと歩くことができました。
左岸側は住宅地が広がっていましたが、途中、右岸側に小さな水田があり稲が大きく育っていました。
その水田の向こう側が蛇行していたので、旧河道のようです。
しばらくすると、地図で見つけた「鎧堰跡」がありました。
「鎧堰の歴史」
鎧堰は、永禄八年(千五百六十五年)に八王子城主、北条氏照侯の印判状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照は天正十八年(千五百九十年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで四〇〇年以上に渡って野津田地区で八町八歩(約八七〇〇〇平方メートル)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれてきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す。 平成二十一年
十四世紀に「関戸合戦」で多数の兵が犠牲になり、「鶴見川でもその屍が折り重なって堰となった」とその名の由来が記されていました。
今の平和な川の風景からは想像もできない歴史ですね。
しばし鎧堰の放水路の流れを眺めてから、また歩き始めました。
*源流近くまでバスに乗る*
「源流まであと5km」という表示がありました。
地図では2~3kmぐらいに見えたのですが、5kmはあるようです。
猛暑日になりそうな暑さですし、町田駅から薬師池公園に向かう途中のバスになぜか星占いがあって、「楽しいことが目白押し、疲れすぎないように」とのことでしたから、一休みすることにしました。
「冷やし中華」の文字に惹かれてお店に入りました。餃子も美味しそうです。本当は生ビールがあれば最高ですが散歩の途中ですし、何より緊急事態宣言下で酒類の提供は中止でした。
食べて元気になり、ここから上り坂なのでバスを利用することにしました。
鶴見川の両岸には遊歩道がないような地形です。
終点で降りて、またGPSをつけながら歩きました。
周りは静かな山林と田畑が点在する場所ですが、橋本や南大沢方面への抜け道になっているのか、車がひっきりなしに通って行きます。
急に目のまえが開けるような場所に出て、水田が広がっていました。
その途中に池のような場所があったのですが、GPSとずれているのか行きすぎてしまいました。
そこが源泉でした。
当地は、鶴見川の源流部・町田市上小山田田中谷戸に位置し、一日約1,300トンの地下水を湧出する「鶴見川源流の泉」です。この安定した清流は、源流の生きものたちの賑わいを支え、水田の用水としても大切に利用されつつ、中下流の街にむけて、多摩丘陵をかけおります。 町田市下水道部
管轄は「下水道部」なのでしょうか。
まるで子どもの頃に遊んだ秘密基地のような場所です。秘密基地といっても、家のすぐ裏にある野原にこんこんと泉が湧いていたのでした。
「源流の生きものたちの賑わいを支え」
なんともいい表現ですね。
しばらく水が湧き上がっている池を眺め、満ち足りた思いでバスに乗りました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。