医療介入とは 106 未曾有の事態でもこの国の医療はぶれない

散歩をしながらメモをしているのですが、風景に関することだけでなく、まったく別のことを思いついて記録しているものもあります。

 

境川中流の都県境を行ったり来たりした時には、こんなことをメモしていました。

検査から治療費、さらにワクチンまで全て国や自治体が負担

うなぎ上りの患者数に、病院での入院治療だけでなくホテル療養や自宅療養、そして予防のためのワクチン接種や検査を含めて、医療に対する支出はどれだけだったのだろうと思いながらメモをしたのでした。

 

軽症でも10日から2週間近い治療費や宿泊費と、食費、そして見守るためのスタッフなど、もし自己負担分を課されたら、しかも家族の何人かが感染していたら一家にかかる費用の総額は相当なものになっていることでしょう。

 

さらに感染症に罹患してホテル療養や自宅療養する人への「食事提供」まで考えられていたことに、医療もまた驚異的に変化する時代だったことを思い返していました。

 

お弁当や保存食のような食品に不満が出ていましたが、1950年代、患者さんは布団やコンロを持ち込んで入院して自炊だった時代から、食事もまた治療の一つとして無料で入院食が設定されたという変化があったからかもしれませんね。

現在では入院中の食費が徴収されて一部自費になっているのですが、今回のような非常時には無料で提供された経緯にはどのような議論があったのでしょうか。

 

*1950年代、普遍的な医療や看護の方向へ*

 

「患者さんが布団やコンロを持ち込んで入院していた」時代について福井県看護連盟の座談会の記事を紹介しましたが、その中にこのような記述があります。

1950年の「完全看護」という考え方に伴い、看護を全て病院側で行うという「基準看護」や、病院側が寝具を用意する「基準寝具」という流れになっていった。

 

私が1980年代初頭に看護師になった時にはすでに「当たり前」だったのですが、大きな災害や今回のような未曾有の感染症拡大時に、この時期の医療や看護の方向変換がなかったらどんなことになっていただろうとつくづく思います。

 

毎日、意識のない患者さんの体の向きを変え、鼻から流動食を入れ、体を清潔にし、何か変化がないか見守る。

最初は戸惑いもありましたが、体が温かい限り、心臓が動いている限り、私たちが見守りますということが可能だったのも、経済的に困窮している人にもお金や入院期間を気にしないで治療や看護に専念できたのも、この1950年代の変化があったからだったと思えてきました。

 

その後、少しずつアメリカのような急性期中心の医療、医療費削減へと1990年代から方向変換し始めました。

「質の高い看護」とはどういうことだろうという葛藤とともに。

 

 

ところが、今回の未曾有の事態でも、私が働き始めた頃の医療の方向性からは大きく変化していなかったような印象を受けました。

健康と疾病と障害、自分がいつどうなるかは誰もわからないのですが、どのようになっても普遍的な意味がある医療や看護を求め続ける。

平たい言葉で言えば「どんな状況にある人も見捨てない」という感じです。

 

今は、そんな言葉でしか表現できないのですが、ほっとするとともにこういう医療システムの中で働いてこれたことに良かったという思いが強くなっています。

 

 

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