存在する 25 遺(のこ)ったり、壊されたり

石田堤史跡公園の東屋(あずまや)風の休憩場所に、「豊臣秀吉による全国統一の過程」「小田原征伐時の関東」「天正14年前後の関東の様子」といった四十数年前の高校時代の知識を総動員する必要がある説明板と、「鴻巣市ふるさと総合緑道」という散歩道の地図がありました。

 

過去と現代を行ったり来たりしながら、少し離れたところに残されている石田堤のそばを歩き、堤根(つつみね)地区の住宅地からまた武蔵水路沿いの遊歩道へと戻りました。

ここからは、右手の広大な水田地帯を眺めながら古墳公園を目指します。

 

一面緑の稲穂と白鷺、そして真っ青な空。

熊谷バイパスの下を通り、また水田地帯をただただまっすぐに歩きます。

稲の香りと、遊歩道の樹木のおかげで、疲労感もありません。

いつの間にか一万歩を超えたあたりで右手に曲がり、水田の中の一般道へ入ると、その先に鬱蒼とした森が見えます。古墳群と前玉神社があるあたりです。

 

前玉(さきたま)神社、昔海底だった頃、このあたりは海洋に突出したところだったのでしょうか。

境内に入ると地図には載っていなかった池があり、社殿までは上り坂と急な石段でした。

 

古墳通り沿いに歩くと、水田の中に二子山古墳がありました。古墳群にも立ち寄ってみたかったのですが、先を急ぎます。

武蔵水路と新忍川を渡り、古墳通りをまっすぐに歩いて水城(すいじょう)公園を目指しました。

排気ガスの道から一歩公園内に入ると、別世界の空気と静けさです。

咲き終わっていましたが、ここにも古代蓮が植えられた小さな池があり、その先に忍城の外堀だったところが青く広がっていました。

一日中、そこで大きな池を眺めていたいような公園です。

Wikipedia水城公園によれば、「明治政府が1873年明治6年)に近代化路線の一環として、太政官公布で公園制度を発足させ整備したもの」とあります。

140年ほど前にこの公園という概念がこの国に取り入れられていなかったら、どれだけのものが失われていたことでしょう。

 

外堀から忍城へと歩くと、住宅地に「勘定所跡」「本丸」と行った碑や説明があります。

そして忍城と堀が見えてきました。

そばの医療施設でしょうか、その美しいお城の外観に合わせような建物です。

歴史が残っている中で生活しているようです。

 

Wikipedia忍城によれば、「数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった」とあります。

 

歴史に「もし」はないのですが、石田堤が破堤せずに水攻めが成功していたら、この風景もまた違っていたのでしょう。

 

その石田堤も、「この地域に点在していた古墳を取り崩してその土などを利用」したというのですから、ヒトのちょっとした考え方一つで、歴史的なものはその存在を遺したり、壊されたりするのですね。

 

その今は存在していないものにも圧倒されながら行田市駅まで歩き、秩父鉄道に乗って帰りました。

 

 

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